第511話 別れちまえ


 倉庫横の美術スタッフの作業場の前に、人集ひとだかりが出来ていた。


 トラブルは人をかき分けて、中央で横になる男性にひざまずく。


「おう、トラブル。このバカ、窓を開けないでペンキをベンジンで薄めていたんだ」


 男性のかたわらで、ソン・シムは言葉とは裏腹に顔を蒼白にさせていた。


 トラブルは、薄目を開けて見上げる美術スタッフの脈を取り、瞳孔を確認する。パルスオキシメーターで酸素濃度を見て、ホッと息を吐いた。


 メモでソン・シムに説明をする。


『空気の綺麗な場所で安静にしていれば大丈夫です』


「そうか、良かった……おい、安静にしていれば大丈夫だとよ」


 ソンは美術スタッフの肩を叩く。


「まったく、窓を開けないなんて初歩的なミスだろうが」


『まだ、臭いますね』


(頭が痛くなりそうだ……)


「ああ、こいつがひっくり返る時に一斗缶いっとかんも、ひっくり返したらしい。窓を開けて換気をしたが……どこかにまるとマズいな」


『はい。ここは1階なので心配はいらないと思いますが、風の流れで社内のどこかに揮発性きはつせい物質がまり、知らずに吸い込むと被害が出ます。万が一、引火したら火事に』


「おい、誰か代表に連絡して社内を換気する指示を出してくれと伝えてくれ。使っていない部屋も全てだ」


 ソン・シムの指示で数名のスタッフが走り出す。横になっていたスタッフは「眩暈めまいは治まって来ました」と、体を起こした。


「無理するな。今日は帰っていいぞ。明日も体調が悪ければ休め」

「はい。ご迷惑を……」

「いいから、帰れ。無理はするなよ」


 スタジオの内線電話が鳴る。ソン・シムは「代表だろう」と、受話器を取った。


「はい、一斗缶いっとかんのほぼ全部が流れ出ました。はい、まだ、強く臭っています。いえ、缶の倒れた音で発見が早かったので意識はすぐに戻りました。はい、帰します。はい、念の為です。お願いします」


 ソンはトラブルに向かい「代表が全館連絡してくれる」と、告げた。


 トラブルは(全館連絡?)と、首をかしげる。


「なんだ、知らないのか? 各階の非常階段の出口に古い内線電話があって、そこは緊急時に備えて、代表の部屋から一斉に鳴らせるんだ。それで、各階にいちいち連絡しなくても近くにいるヤツが内容を聞いて、その階の皆に知らせるルールになっているんだよ」


(それの使い道が、これ?)


 トラブルは反対側に首を傾げてみせた。


「不審者対策だそうだ。ヤバイ奴が入り込んで、どこに行ったか分からない場合は、一斉に知った方が鍵を掛けて隠れられるだろ」


(なるほどー。でも、その電話に出たスタッフが襲われたら……あ、他の階は無傷で済むって事か……えげつな)






 トラブルが妙な納得をしている頃、テオは控え室でノエルに抱きついていた。


「テオー、食べにくいんだけどー」


 ノエルは箸でつまんだ餃子をテオの肩越しに口に入れる。


「何があったのさー?」

「ノエル、言わなくても分かるんでしょ?」

「僕が感じたモノとテオが見た事は違うからさー。テオの言葉で話してよー」

「僕……話がしたくて。でも、忙しくて、手伝ったんだけど、なんか、聞いてくれなくて。でも、我慢したんだよ⁈ 仕事の邪魔しちゃいけないから。でも、鍵を掛けるって、出ろって。でも、僕が泥棒みたいなマネするわけがないじゃん? 皆んなも分かっているよね⁈ トラブルだけが分かってないんじゃん」


 ノエルは幼馴染の性格をよく分かっていた。


「『でも』が多いって事はテオが悪いって事だねー」

「なんでさ!」

「もっと、して欲しい事を伝える努力をするって言ってなかった?」

「伝えようとしたよ! でも、トラブルが聞いてくれないんだよ!」

「また『でも』が出たー」

「僕は悪くない!」

「あー、そうですかー」


 その時、マネージャーが駆け込んで来た。


「換気を! 窓を開けますよ!」

「どうしたの?」

「18Lリットルのベンジンが社内でかれたそうです! 毒性があるので換気をする様に連絡が来ました。2人は息が苦しいとかありませんか?」

「ないけど……かれたの? こぼしたのではなく?」

「あ」


 テオは医務室に来た美術スタッフを思い出した。


「ベンジンを吸い込んで倒れた人がいるって……トラブル、そこに呼ばれて行っちゃったんだよ。トラブルも吸い込んでいるかも!」

「18Lリットルはヤバイよねー」

「僕、トラブルの所に行って来る!」


 走り出そうとするテオをマネージャーが止めた。


「ダメです。危険な場所に行ってはいけません」

「トラブルがいるんだよ⁈」

「トラブルは、それが仕事です。私の仕事は大量のベンジンから、あなた方の喉を守る事です。ここで待機していて下さい」

「……それが僕の仕事」

「そうです。もし、少しでも臭いを感じたら教えて下さい」


 マネージャーはそれだけ言って、控室を出て行った。


 ノエルは食事を続ける。


「どこで、かれたんだろ? ま、一斗缶いっとかんを持ち込むなんて考えにくいから、美術さんがこぼしたのかなぁ。だったら、倉庫かな? ベンジンは空気より重いから、この階までは上がって来ないと思うけどねー」


 平然と食事を続けるノエルをテオはにらみつける。


「誰も僕の話しを聞いてくれない」

「聞いてあげたでしょー? 『僕は悪くない』って言い切る人に、どんな助言が出来るって言うのさー」

「だって……」

「今のテオの状態で、僕が何を言ってもケンカになるだけだよ」

「でも……」

「テオが聞く態勢になってないじゃん」

「だけど……」

「『だって』『でも』『だけど』 親にブン殴られる返事だよねー」


 ノエルはケラケラと笑いながら最後の餃子を口に入れた。


「ノエル、ひどいよ……」

「そう? 僕がひどいの? トラブルの仕事を邪魔したテオはひどくないの? 医務室は個人情報の宝庫じゃん。それを守ろうとしたトラブルは、ひどい事をしているの? ましてや今、人命救助中なんじゃないの? テオが行って、どうなるの?」


 テオは言い返す言葉が出て来なかった。


 うつむき、この気持ちをどう表現すれば良いのか見当も付かない。しかし、不満だけが膨れあがって行った。


 ノエルは、そんなテオを見てクスッと笑う。


「テオちゃーん、ねないのー。テオを第一優先で扱ってくれる、お母さんみたいな人がそのうち現れるよー」

「え! どういう意味⁈」


 ノエルはひと呼吸置いて、顔を歪める美しい幼馴染に温かい目を向けた。そして、優しく言う。


「トラブルと別れれば楽になるよ?」

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