第656話 命のバトン


「何もかも、あんたが悪いの!」


 ユミちゃんは代表をポカポカと殴り続ける。


「やめろ! 俺が何をしたって言うんだ⁈」

「あんたがトラブルを巻き込んだの! カンボジアにジョンを行かせたり……本当、ろくでもない男ね!」

「お前、会社代表に向かって……痛っ、やめろよ!」

「やめない! バカバカバカ……!」


 ユミちゃんの手首をセスがつかんでめさせた。


「その辺にしとけ。妊婦が待ってるぞ」


 ユミちゃんは、不貞腐ふてくされた顔でセスをひとにらみして腕を下ろす。


「あいつを頼んだぞ」

「分かってるわよ。は、離しなさいよ」


 顔を赤くしてセスを振り払い、トラブルの元に走る。


 トラブルは皆にペコリと頭を下げ、ユミちゃんとスタジオを出て行った。


 ノエルが、あれれ〜?と、セスをのぞき見る。


「セスー、そういえばユミちゃんのハワイのお土産ってどうなったの?」

「別に……買って渡しただけだ」

「そうなの? 買えるモノだったんだー?」

「どういう意味だ」

「別に〜。なんかイイ感じだなぁって思ってさ」


 ユミちゃんのお土産リクエストは『タカラガイの貝殻』だった。


 珍しい貝で、運が良ければ海岸で拾う事も出来るが、セス達が行った観光客の多い海岸では不可能に近かった。


 結局、土産物屋で買って渡したのだが、ユミちゃんは探してくれた事が嬉しいと言って受け取った。


 面倒な女だが可愛いと思ってしまった事をノエル達に知られまいと、ポーカーフェイスを貫いていたが……。


(ま、バレるのは時間の問題だな)


 セスもまた、少しずつ新しい道を歩み始めていた。






 2ヶ月後、予定日より大幅に遅れてトラブルは出産した。


 ジョンから送られて来た画像には、大きな口で泣く赤ん坊と笑顔の2人が写っている。


『皆んなー、3410g 大出産!』

『大出産ってなんなのー?』

『おめでと』

『おめでとうございます』

『デカいな』

『僕がへその緒を切ったんだよー。すごいでしょ』

『間に合ったのですね。良かったです』

『ユミちゃんに叱られなかった?』

『キャーキャーうるさいって叱られたー』

『想像できるよー』

『名前は?』

『これから考えるー』

『子豚だな』

『息子を子豚って呼ばないで!』

『明日は収録ですよ』

『はーい、帰りまーす』

『飛行機に乗り遅れない様に』

『分かってるよー。じゃあね』


 ジョンは我が子と、我が子を産んでくれたトラブルにチュッとキスをした。


「ママを困らせちゃダメでちゅよ〜。あの、おばさんに叱られちゃいますからね〜」

「なんですってー」


 ユミちゃんが指をボキボキと鳴らす。


 トラブルは、そっと乳飲児ちのみごの耳を塞いだ。


「殺さないで!」

「早く支度しなさいよっ。遅れたら本当に殺すわよ!」

「ひ〜!」


 ジョンを空港まで送る為に、ユミちゃんは車を走らせる。


 到着するとジョンは深々と頭を下げた。


「2人をよろしくお願いします」

「改まって、なによ……そんな事分かってるわよ。あんたこそ、しっかりやんなさいよ。ソヨンに迷惑掛けるんじゃないわよっ」

「うん、頑張る。行って来まーす!」


 ジョンは手を振って空港内に消えた。






 騒がしい2人が出て行き、トラブルは、すやすやと眠る我が子の呼吸に耳をすます。


 安らかで小さな呼吸は、あまりにも未熟で頼りなく、この子の運命を自分が握っていると恐怖すら感じる。


 こんな未熟な生き物を冬の寒空に捨てた女を想像するが、どんな事情があったとしても自分なら共に死ぬ運命を選ぶだろうと思う。


 私を見て愛おしいと感じなかったのだろうか。


 ひと目、見る事もしなかったのだろうか。


 私を産んだ女は、そんな人としての感情が欠落した人間だったのだろうか。


 私の母は……。


 想像は想像でしかないが、それでも断腸の思いだったと信じたい。


 どんなに望まない子供でも10ヶ月は運命を共にしたわけで、ふくれていく腹に嫌悪感を抱いたとしても、動く胎児に吐き気をもよおしたとしても、殺す事はしなかった。


 だから、ここに、この子がいる。


 もしも、共に生きて行く事が出来なくなったとしても、この子にも、そう思っていてもらいたい。


 母は命をつなぐ素晴らしい仕事をしたのだと。







【あとがき】

 今回が実質的な最終話です。

 次回は、ほんの少し、後日談を描きたいと思います。

 今しばらくお付き合い下さいませ〜。

 

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