第94話 家


 医務室に春の健康診断の為の採血管やスピッツが搬入される。


 血液検査センターの担当者は、1人でさばけるのかと心配した。


 トラブルは、期間を4週間に伸ばしたので何とか出来ますと、答えるが「初回なので混乱が生じるかもしれません。うちから、1人ヘルプに寄越よこしましようか?」と推した。


 トラブルは、うーんと、考えて『では、女性の方で、出来れば看護師資格のある方をお願いします』と、メモで答えた。


 名簿と突き合わせ、血液スピッツ用名前シールと採尿カップ用名前シールを印刷し、それぞれ伝票を作成、各部署ごとに仕分けして午前中は終わった。


 昼、ユミちゃんが教科書とノートを持って現れる。


 皮膚科の勉強は続いている。ユミちゃんは、ゆっくりだが確実に吸収して行くタイプだった。


「中華のテイクアウト、買って来たわよー。今日もよろしくねー」


 トラブルはパソコンに『今日は、丘疹きゅうしん小結節しょうけっせつの違いを勉強しましょう』と、打つ。


「はーい。あ! デザート忘れてた」

『冷蔵庫にアイスがありますよ』

「食べていいの? ゼノが買って来たんでしょ?」

『この冷蔵庫は私の物なので、中の物も私の物です』

「お前の物も俺の物的な発想だけど。ま、いっか。食べちゃおー!」


 トラブルとユミちゃんはテイクアウトの焼きそばを頬張りながら教科書を読み進めて行く。


「この間のアトピー性皮膚炎の子、だいぶ良くなって来たみたいよ」

『そうですか。でも、薬をやめないように伝えて下さい。少しずつ量を減らして行って最終的に保湿剤だけで維持出来ることを目標にして下さい』

「うん、伝えておく。でも、デビュー出来るか微妙なんですって。メンタル弱くて、すぐ練習を休むから他の子も練習が出来なくて困ってるって」

『そうですか。せっかくオーディションに合格したのに勿体もったいないですね』

「だよねー。ま、顔が可愛いだけじゃ生き残れないからねー、この世界は」

『そうなんですか?』

「そうよー。 テオなんて10社からスカウトされてて、うちに決まった時は、代表、ガッツポーズしてたけど、いざ練習生になったら恥ずかしがって挨拶は出来ない、声は出ない、ノエルの後ろに隠れているばかりで、ダメダメだったんだから」

『本当に?』

「ジョンもそうよ。人見知りが激しくて、ゼノが通訳してるみたいで、おかしかったわー。最初からプロ意識があったのはセスとノエルね。でも、セスは自分さえ良ければいいって感じだったから、やっぱりノエルの功績が大きいわね。グループ全体が売れなくては、自分の人気も出ないって全体を盛り上げようとして、それにゼノが協力した感じかなー」

『今は、どうですか?』

「今はー、メンバー1人1人が全体を盛り上げようと動くようになったからノエルは楽になったと思う。ゼノは、分からない事があるとセスかノエルを頼って2人の居場所を作ってあげてる感じ。テオはノエルの影響で努力して1番人気になって、でも鼻にかけずに我が道を行ってるし、ジョンは可愛がられてナンボって理解したみたい。セスは、本当は制作陣側になりたいんじゃないかなー」

『なるほど。よく観察していますね』

「まあね。長い付き合いだからね。ところで、この丘疹きゅうしん小結節しょうけっせつの違いは大きさだけって事?」

『大雑把に言うとそうです。では、丘疹きゅうしんの種類に進みましょう』

「うへー、また、漢字ばっかりの世界へ突入だー」


 ユミちゃんの漢字の書き取りをする鉛筆の音だけが聞こえる。


 トラブルはユミちゃんの本を開く。


 お互いの得意分野を教え合う事になり、メイクの勉強を始めていた。


(ブルベ? イエベ? ティント? まったく分からない。医学用語の方が簡単だ)


 静かな時間が流れ、2人は学問の世界を共有する。


(こういう時間、大好き。幸せだなぁー。でも……そろそろかな?)


 トラブルがそう思った時、ユミちゃんが今日も根を上げた。


「眠くなってきたー。もう、ダメ。今日は終わり」


 はいと、トラブルは本を閉じる。


(ユミちゃんはいつも30分で限界がくるなぁ)


 心の中で笑う。





 ユミちゃんが忘れずにゼノのアイスを食べて出て行った後、トラブルは医務室のドアに不在の札を掛けた。


 午後は例の家へ行くつもりだった。


 会社を出て、パクの家と反対方向にバイクを走らせる。


 川沿いの幹線道路を進むと知らない店がたくさん出来ている。橋を渡り、さらに川沿いを進む。


(えっと、この辺に横道があるはず……あった)


 舗装されていない砂利道を降りて行く。まだ背の低い葦の向こうに、かろうじて青い壁の色が残った家が現れた。


 トラブルはバイクを停めてヘルメットを外し、バイクにまたがったまま見上げた。


(まさか、またここに戻って来られるなんて。パク・ユンホが鍵を持っていたなんて。そして、私が相続するなんて)


 トラブルは玄関に近づき傷んだドアを触る。


 鍵を差し込んだ。


 ドアノブを少し持ち上げるようにして鍵を回す。

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