第541話 誰もいない


 テオは、主人のいない医務室でたたずんでいた。


 整頓された薬品棚も、磨かれたミニキッチンもどこか寂しそうに見える。それがまた腹ただしく感じさせた。


(なんだよ。僕は信じないからね。何かの間違いだよ。他の誰かと勘違いされているかもしれないじゃん。そうだよ、トラブルじゃないよ。トラブルが死ぬかもなんて……そんな事……もし、本当だったら……いや、この前、行ってきますって手を振ったんだから……でも、青い家の鍵を僕に……トラブルは、こうなるかもって予感がしていたの?)


 涙を浮かべるテオの目には、白衣をひるがえして医務室を飛び出すトラブルや、パソコンの前で手を挙げるトラブルの姿が、にじみながら浮かんでは消えた。


「トラブル、死んじゃ嫌だよ。友達のままでもイイから帰って来てよ。お願いだから、帰って来て……」


 テオは立ったまま、声を出して泣いた。


 嗚咽おえつおさまった頃、ノエルから練習室にいるとラインが入る。


 テオは、こんな時にダンスレッスンなど出来ないと思うが、無茶苦茶に体を動かしたい気もした。


 医務室を見回して、トラブルは、やはり、いないと確認する。


 涙の跡を手でぬぐい取り、練習室に向かった。






 ヤン・ムンセの無線に、韓国軍のヘリが向かったと連絡が入る。驚いた事に日本に搬送すると言う。


(日本⁈ 近いインドならまだしも、なぜ韓国ではなく日本に……? この人は確か、先輩と日本語の手話をしていた……(第2章第110話参照)いや。日本なら最高レベルの治療が受けられる。それまで頑張って……)


 強心剤きょうしんざいのおかげで、トラブルの心臓は弱いながらも鼓動を続けていた。


 時々、まぶたの下で眼球が動いている。

 

 ヤンはトラブルが覚醒かくせいするかもと息を飲むが、そのまぶたは開かなかった。


(痛みでも目をさまさないなんて、脳に異常が?)


 しかし、これ以上の異常の発見も治療も、この病院だけでなく、この島では不可能だった。


(おそらく、ジャカルタに送っても整形外科、循環器、そして、この血液の薄さ……血液内科が揃う施設はないだろう……日本なら助かるかもしれない)


 ヤンはヘリの到着を待つ。






 トラブルは大きな爆音の中で目を覚ました。だが、まぶたは閉じたままだった。


(うるさいな……ラーメンを食べて、寝て……うっ!)


 激痛が走り、腕を動かそうとするが動かない。実はヘリのストレッチャーに固定されているからなのだが、トラブルは貧血の為だと思った。


(なんで、痛いの。体中が……痛い。誰か……!)


 トラブルが目を開けると、まぶしい光に辺りが真っ白で見えなくなる。


(どこ⁈ ここは⁈)  


覚醒かくせいしましたか⁈」  


 光を背にして軍服を着た男性が視界に入って来る。しかし、ピントが合わず顔がよく見えない。


 いつもの悪夢かと錯覚する。


(誰⁈)


「分かりますか? 日本に向かい飛行中です。聞こえますか?」


(何? 何を言っているの? 聞こえない……ここは……体の感覚がない……)

  

 男性の声は断片的にしか届かず、ヘリの爆音が頭に響く中、目を開けているのも限界でまぶたを閉じる。


 そのまま、意識を失った。


 その後、トラブルは、ヘリが揺れるたびに目を覚ましては痛みで気を失うを繰り返した。






「出来なーい!」


 ジョンが地団駄を踏んで悔しがっていた。


「どうしたの?」

「あ、テオ! お帰りー。ノエルの教え方が悪いんだよー」

「僕のせいなの? ゼノとセスは1回で覚えたじゃん」

「セスは振り付けの先生と自分で作ったから、出来るに決まってんじゃん!」

「じゃあ、ゼノは?」

「う。お、大人だから」

「もー、子供みたいな事、言うー」

「だって、どんどん難しくなるんだもん!」


 口を尖らすジョンを、セスは鼻で笑う。


「お前は酒の飲み過ぎで脳が縮んでんだ」

「なら、毎日飲んでるセスとノエルの方がヤバいじゃん!」

「俺達は、別格なんだよ」

「胃じゃなくて直接、肝臓で飲んでるんでしょー! 人間じゃない! お化け! 宇宙人!」

「バカかっ」


 いつもの練習室の光景にテオはホッと安心して、また、涙がこぼれそうになる。


 ズズッと鼻をすすり、皆の輪の中に入った。


「ジョンは、どこが覚えられないの?」

「間奏のここ。こうやって、こう来て、こう……の、次が難しいの」

「え! 何その動き! 僕、知らないんだけど!」

「あー。ゼロからの子が、もう1人いたかー」


 ノエルは髪をかき上げて、鏡の前に立つ。


「2人とも、よく見ててね」


 フレーズを口ずさみながら、流れる様なダンスを披露した。






 代表は執務室で暗い顔をして電話を切った。


「どうでしたか?」


 事務局長は身を乗り出して聞くが、代表が首を横に振った事で、結果を知った。


「そうですか。トラブルのお母様は日本に行って下さらないと……」

「唯一の身内だが、血は繋がっていないからな。家族の同意がなけりゃ輸血もしてもらえないぞ……」

「日本は、この国と同じで身内を重視するのですか?」

「ああ。なんでも本人か家族の同意書を取る。訴訟を恐れるのは、どこの国でも同じだ」

「しかし、治療を受けられないなんて事は、あり得ませんよね?」

「と、信じたいが……俺が行っても結局は同じだろうな……俺は日本語が分からんし」

「『夫です』と、言えば良いのでは?」

「うむ……通訳をだまして連れて行けば、どうにかなるかもしれんが……しかし……」

「入院期間中、ずっと付き添う事は出来ませんしね」

「そうなんだよ。仕事が溜まって……家内とお義父さんを食事に行かせなきゃならん」

「長官とですか⁈」

「俺は同席はしないさ。しかし、礼にセッティングくらいはしないとな。はぁー……」


 代表のため息に、事務局長は苦笑いをする。


「厄介な家柄の娘さんに手を出すから……」

「手を出すって言うなよ! 知らなかったんだから!」

「家柄を知られると、男達は逃げて行くから黙っていたと、おっしゃってましたね」

「お、俺は逃げなかったぞ!」


 親が用意した結婚相手よりも、自分を選んでくれた妻を誇りに思うと代表は胸を張る。

  

 結婚式に参列した事務局長は、新婦側の、そうそうたる肩書きを持つ親族の顔ぶれにビビりまくっていたクセにと失笑する。


「逃げられなかったんですよね?」

「愛していたからだ! 人聞きの悪い言い方をするな!」

「で? どうするのですか?」

「あー……どうするかなぁ……」

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