第506話 初めての……


「パパは絶対に嘘は言わない。『シンイーは嘘に触れると傷付く』って言った。だから、本当しか言わない」


(あ、小児心理学の先生だっけ……)


「そうか。なら、どうして塩辛くなったんだろ……料理に詳しい友達がいるから電話していい?」

「セス?」

「お、僕達の事、調べてくれたの? そうだよ、セスは料理が上手いんだ。ちょっと待ってね」


 ノエルはセスに電話をした。シンイーにも聞こえるようにスピーカーフォンにする。


 セスは何度目かのコールで、いつもの不機嫌な声で応答し、ノエルの説明を黙って聞いた。


「ね? 冷めたのに塩気が強く感じるなんて変でしょ?」

『バカか。冷めた方が塩が結晶化して濃く感じるんだ。あと、タレの塩分が浸透圧で肉に移動したとも考えられる』

「なるほどー」

『切るぞ』

「うん、ありが……切れちゃった」


 シンイーは雑誌に書いてあった通りのセスの性格に驚きながら笑う。


「なに? なにが、面白かったの?」

「セス……さん、ツンデレ」

「どこが、ツンデレなんだよー。『ツン』だけで『デレ』なんてなかったでしょー?」

「答えを2通りくれた」

「あー、結晶化と浸透圧ね。たしかに」

「直す方法……」

「え、しょっぱくなった鶏肉って戻せるのかなぁ」

「セスさん……」

「また、聞けって? 電話に出てくれるか……」


 ノエルはもう一度、スマホを手に取る。すると、セスからラインが届いた。


「あはっ! 見て! セスから塩分の抜き方が来たよ! 僕がもう一度電話するって分かってたんだ。本当、セスにはかなわないなぁ」


 そこには水に肉を入れて、電子レンジで温めろと、書いてあった。


「茹で直すって事かなぁ」

「浸透圧」

「え、シンイー、この意味分かるの?」


 シンイーはうなずいて、皿にレタスとタレを移し、肉だけ残されたタッパーに水を張る。


 台所の温め専用のレンジに入れた。


 2分ほど待ち、ホカホカになった肉を取り出す。


 タレを掛けて、シンイーは味見をした。途端に満面の笑顔になる。


「成功?」


 ノエルもひと口かじり「美味し!」と、目を丸くする。


「どれどれ、スープもー……」と、口に入れ、これは塩辛いと顔をしかめる。


「ノエル、塩、嫌い」

「嫌いじゃないけど、薄味が好きだなぁ」

「ノエル、薄味……」

「覚えておいてねー。今度のデートのランチ、期待してる。薄味でね」

「……塩、持って来る」


 無表情のジョークにノエルは腰を曲げて笑った。


「ここって、シンイーしか来ないの?」

「休みの日は私1人だけ」

「お父さんも絵を描くんでしょ?」

「でも、最近は忙しい。何年も描いていない」

「そうなんだ。じゃあ、ここで会えるね」


 ノエルは、もう一度アトリエを見回す。


(いろいろ、改善の余地ありだな……)


 2人は床に座り、椅子のテーブルで食事を済ませた。ノエルは時計を見る。


(そろそろ、帰らないと。シャワーも浴びたいし、ひと眠りしたい……)


「シンイー、今日は学校は?」

「土曜日」

「あ、そうか。世間は土曜か……休みの日は、ここで絵を描いているの?」

「課題のない日は」

「宿題かー、懐かしいなぁ。デザイン学科の宿題ってどんなのが出るの?」

「テキスタイル」

「何それ?」

「布や繊維の……勉強」

「デザイナーになるんじゃないの?」

「生地のデザイン」

「え、あ、服の生地? そうか、こういう布をデザインして作る人もいるのか。そう言われればそうだよね」


 自分の上着を見下ろす。


 シンイーはノエルのズボンをつまんだ。


「これはリネン。亜麻繊維を織物にした物。歴史は古い。エジプトのミイラの包帯。肌に馴染みやすい。水を吸い膨張する。縮みやすい。取り扱い注意」

「触っただけで分かるの⁈ すごいね、そういう勉強をしているんだー」

「1年生に」

「え、今はー……あー、ごめん。タイムアウトだ。もう、帰らないと」


 シンイーの頭の中に灰色と青の水溜りが広がる。


「名残惜しいよね。来月には1日休みがあると思うんだけど……」


 ノエルは抱き寄せたい気持ちを抑えて、シンイーの肩と頭をポンポンと叩いて立ち上がった。


 すそを払い、タッパーの蓋を閉める。布の袋にしまい、シンイーに渡した。


 シンイーは布の袋ごとノエルの手をギュッとつかんだ。


 ノエルは驚いてシンイーを見つめる。


 心臓の音がうるさいくらいに耳の中で響き出し、その振動で体が揺れた。


 ノエルは、彼女も他の女の子達と同じ様に、自分に欲情の視線を向けて来ると思った。しかし、シンイーの感情は寂しさだけだった。


「そんなに寂しいの……僕も同じだよ」


(抱きしめたいとか、キスしたいとか……僕って煩悩ぼんのうの塊だなぁ)


「シンイー、また会えるから……そんな目をするとー……くすぐっちゃうぞ!」


 ノエルがシンイーのお腹をくすぐり、2人は転がって笑った。


 しばらく笑い合い、そして、寝転がったまま見つめ合う。


「寂しいのなくなった? もう……行かなくちゃ」


 ノエルはシンイーの髪を耳に掛ける。頭の中の尻尾が灰色になり、クルンと下がってお尻に巻かれた。


(仔犬が寂しがっているみたい……僕の感情がシンイーにバレなくて良かったよ。これじゃあ獣姦だ……)


「さ、本当に時間切れだ」


 ノエルはシンイーの手を取って立ち上がる。シンイーの服を払いながら微笑みかけ、そっとハグをした。


「じゃあ、またね」


 耳元でささやいて体を離す。


(あー、離れがたい! こんな最高のシチュエーションを活かせないとは、情けないなぁ。でも、戻らないと……)


 ノエルはシンイーに背を向けてドアを開けた。


 鉄階段を数段降りたところで、シンイーが付いて来ていると気が付いた。ノエルは振り返り、シンイーを少し見上げながら優しく言う。


「見送りはイイよ。道は分かるからさ。タクシーを適当に拾……」


 ノエルは言いかけた言葉を止めた。いや、言えなかった。


 シンイーの口がノエルの唇を塞いでいた。


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