第86話 よーいドン!


 エレベーターホールでテオの姿を見つけると、セスは眉を上げた。


「帰ってろって言ったろ?」

「うん、一度は帰ったんだけど、ゼノの車で戻って来た」

「あ? ゼノは?」

「皆んなで車で待ってる」

「ったく……」


 テオは冷えた体をさするトラブルに声を掛けた。


「トラブル……大丈夫?」


「だから、その聞き方では……」と、セスが言いかけるとトラブルは、大丈夫ではありませんと、答えた。


 トラブルは驚くセスに手話をしてみせる。


温かいお風呂にゆっくり入って体を芯から温めて下さい。風邪の症状が出たらすぐ私の所へ来るように。喉が痛くなってからでは遅いですから。


「はい、はい」


 セスはテオを残して階段に向かう。「車で待ってるぞー」と、後ろ手に手を振って降りて行った。


「トラブルから夜の匂いがする」


 テオは微笑んだ。


川の匂いですよ。


 微笑み返す。


 トラブルは白衣を脱ぎリュックにしまう。自分の上着を着て、私はもう大丈夫ですと、言った。


「うん、大丈夫って分かってる。だから、大丈夫」


 トラブルは、そうですねと、笑う。そして、時計を見た。


(ゲッ! 8時半!)


 大急ぎで荷物をまとめ、テオの手を握って走り出した。


 階段を飛ぶように駆けりる。


 そのあまりの早さに驚き、怖がっていたテオは楽しくなって来た。


 2人で思いっきり走る。


 守衛室の前を走り抜け、外へ出ると2人は手を離して競争が始まった。


 笑顔で前後しながら駐車場を疾走する。


 セスは車のドアを開ける所だった。


「ゴールはセス!」


 セスはテオの声に振り向く。猛スピードで走ってくる2人に慌てて車に乗り込んだ。


 バンッ バンッ


 テオとトラブルは同時にボンネットに体ごとタッチした。


「アハハハー!」


 テオの笑い声とトラブルの笑顔が駐車場に響く。


 車の中の4人は目を丸くしている。


 トラブルはフロントガラス越しに、助手席に座るノエルに「じゃ」と、敬礼をした。


 テオに、また明日と手話をして、運転席のゼノに頭を下げ、ジョンに手を振り、バイクにまたがってエンジンをかける。


 ヘルメットを顎に固定して急発進で駐車場を後にした。


 テオは車に乗り込み「あー、面白かったー」と、白い歯を見せて肩を揺らす。


「テオ、なんで走ってきたの?」

「ん? 分かんない」


 テオの顔はまだ笑っている。


「さ、帰りますか」


 ゼノは2人を無事に回収して胸を撫で下ろす。車が動き出すと、すぐにセスの寝息が聞こえて来た。






 トラブルが家に着くとすでに9時を回っていた。


 パク・ユンホはベッドの上でお手伝いさんと昔のアルバムを開いて楽しそうに雑談している。


 遅くなりましたと、トラブルが部屋に入ると、お手伝いさんは「見て下さい。パク先生の子供の頃の写真ですって。可愛いですよ」と、アルバムを指して見せた。


 パク・ユンホはしっかりとした口調で写真を指差しながら昔話を繰り返した。


(今日は体調が良いようだな……)


「トラブル、お疲れさん。先に風呂に入って来なさい」と、パクが言う。


 トラブルはお手伝いさんの顔を見て、いい?と、聞いた。


「はい、ゆっくり入ってきて下さい。夕食をここに運んで置きますね」


 トラブルは、お言葉に甘えて冷え切った身体を温めた。


 パクの部屋で夕食を食べる。


 お手伝いさんは、まだパクの昔の話を聞いていた。


「これは幼馴染の2人だよ。いつも一緒に遊んでいた。こっちは誕生会だな、いくつの時かなー。あー、この公園懐かしいな。今もあるかなぁ」


 トラブルは、パクの饒舌じょうぜつさに不安を覚えながら夕飯を済ませた。


ご馳走さまでした。


 お手伝いさんが片付けてくれている間に、パクをトイレへ連れて行く。


 パクはなんとかトイレだけは自分で行う事が出来ていた。


 ベッドに戻り、もう寝ましょうと、痩せた胸元を優しくポンポンとする。


 パクはスーッと寝入って行った。


「私は帰りますね。おやすみなさい」


 お手伝いさんを見送り、訪問看護師のノートを見る。今日はあまりモルヒネを使わなかったようだ。半分セクハラの冗談を言って看護師を笑わせていたらしい。


 トラブルも簡易ベッドに横になる。


 すぐに夢の中へ落ちて行った。

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