第85話 笑顔の理由

 

 暗い中、トラブルは緩やかに、しかしハッキリと手を動かしてセスに語る。


私はバリになど行きたくなかった。パク・ユンホは『インスリンを持たずに行くぞ』と、脅しをかけてきました。やむを得ず同行したけれど、内心はパク・ユンホを殺してやろうと思っていました。


「ハハッ」


飛行機でもホテルでも一言も会話をしませんでした。


「パク先生は勝手にしゃべってそうだけどな」


はい。ずーっと、しゃべってました。黙った瞬間に殺されると思ってたと言っていました。


「どれだけ殺気さっき立ってっへっへクション!」


 セスは大きなクシャミをした。ブルっと身震いをする。


寒いですね。


「寒いですねー」


帰りましょう。


「いやだ。話しを聞きに来たんだ」


風邪を引きます。


「もう、引いた。話したいんだろ?」


……いいえ。


「俺にウソはつけないぞ」


……そうですが。


 セスは躊躇ちゅうちょするトラブルの肩に掛けた上着の中に入り込む。お互いに1枚の上着を押さえて、2人はぐっと近づいた。


 手に白い息をかける。


「その白い白衣の色で見つけられたんだ。いつもの黒い服だったら見つけられなかった」


 トラブルはテオから贈られた自身の白衣を見下ろす。


テオのおかげですね。


「ああ、テオのおかげだ。あいつのおかげで助かった事はたくさんある」


そうですね。不思議な人です。


「ああ、あいつは不思議だ」


 セスは夜空を見上げる。


 冬の澄んだ空気は、都心の明るさの中で、それでも星明ほしあかりを地上に届けていた。


 トラブルは、そんなセスを見る。


 瞳の中に、星なのか川面に反射した夜景なのか、キラキラとはかない光がまたたいていた。


 セスはその視線に気づき「ん?」と、顔を向けた。


 トラブルは話しを続けた。


バリは極彩色にあふれていて……頭痛がして、陽気な音楽は不愉快でたまりませんでした。


 セスは「ふん」と、鼻で笑う。


夕方、がけの上から夕陽を見ていて、大きくて赤い火の玉が海の中へ、まるで水蒸気を上げてジュッと音を立てて沈んでいくのを見ました。私の火も一緒に消してもらいたくて、私も海の底へ連れて行ってもらいたくて崖のふちに立ちました。


 セスは黙って手の動きに集中した。


火の玉はどんどん小さくなり、辺りは暗くなっていく。早く飛び込まないと置いて行かれる。私を置いて行かないでと思った時、いつの間にか後ろにいたパク・ユンホが『あと、5分待て』と、声をかけて来たんです。


 再びハァと息を吐いて、手を温めた。


飛び降りようとしている人間に、あと5分って、意味が分かりませんよね。でも、私はなぜか5分待つ事にしたんです。


 思い出した様に足元を見て頰を上げる。


5分待つ間もパク・ユンホはしゃべり続けていました。そして、ここはププタンがあった場所だと教えてくれました。


「ププタン?」


はい。バリ語で血の最後の一滴まで敵に抵抗する。という意味です。様々な王朝に支配された歴史の中で、敵に降伏する位なら全員で抵抗して殺されようと、敵の銃弾に向けて行進する。それは、女も子供も全員殉職するまで続いたと……。


そんな話しを聞いていた時、太陽が沈んで暗くなっていた空に、突然、赤や青の光が差して空が明るくなって、信じられない色が空一面に広がって、うわーって……。


パクは太陽が沈んでからしか見られない、この世界が見たかったと言いました。


そして……パクは死にたくないと泣きました。神はなぜ、こんなにも美しい世界を作ったのだろう。これでは未練が残ってしまう。まだ、死にたくないと…… 。


私は、今まで『死にたくない』と、言いながら亡くなる方をたくさん看取みとって来ました。きっと、ここでププタンに加わった太古の人々も本当は死など望んでいなかった。なのに、今、自分は死を選ぼうとしている。情けなくて、申し訳なくて、私も泣きました。


変ですよね。親子ほど年の離れた2人が崖の上で泣いているのですから。


パクは、肉体の痛みが無くなったら精神の痛みも無くなるのかもと、言い出しました。それが魂が自由になるという意味かもしれないと。そして、死んでからの目標が見つかったと言い出したんです!


「死んでから目標⁈ 」


はい。よぼよぼのお婆さんになって死んだ私の魂を、世界中の美しい場所へ案内してやるって。


以前だったら、またおかしな事を言い出したと相手にしない所ですが、その時の私は、何て素敵な考え方なんだと感動してしまって……で、パク・ユンホの戯言たわごとに感動している自分がおかしくて、おかしくて。


気が付いたら私は笑っていました。


パクは、最後にやりたい事が見つかったと言いました。最後の最期は私の顔を見ながら死にたいと……。


私は了解しましたと、答えていました。


その後は、極彩色も音楽に踊る人々も美しく見えたんです。神々が棲む島は、いつも家の前や道端に花や米がおそなえしてあって、感謝の気持ちにあふれた島でした。


 トラブルは長い話しを終えた。その顔は晴々としてした。


 セスは上着の中でトラブルの肩をギュッと抱き寄せる。そして、すぐに離した。


「髪が凍りそうだ。帰ろう」


 セスは立ち上がり、トラブルに手を貸さずに会社に向かい歩き出す。


 トラブルはそのあとを追った。

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