第484話 誰か轢いて


 宿舎を飛び出したトラブルは、とぼとぼと歩いていた。


 タクシーを拾う気にもなれず、ただ足を進める。自宅に向かってはいたが、その自覚はなかった。


(テオ、追い掛けて……来るわけないか……泣いているかな……ノエルに泣き付いているだろうな……)


 足元の灰色のアスファルトだけを見ているが、濃い影で空の青さを感じる。


 太陽は真上から首筋を焼いていた。


(もっと話し合えば良かった。きっとテオなら分かってくれた……ううん、私に合わせてくれた……このまま、終わるのかな……私、また失敗した)


 歩いている感覚もなくなり、ただ、首筋の焼ける様な暑さが、まだ生きていると感じさせた。


 車のクラクションが鳴り響く。


(後ろからいてくれないかな……飛び出したら……迷惑か……)


 クラクションが短く鳴る。


(うるさいな。邪魔なら早くけばいい……)


 再び、クラクションが鳴った。


けって言ってんのに……!)


 トラブルが振り向くと、知った顔と目が合った。


(え? 代表⁈)


 代表は車の窓を開け、トラブルに向かって叫んだ。


「おい、何やってんだ⁈ そんな所を歩いていたらかれるぞ!」


かれたいんですけどー……)


「なんだ、その顔は。いて欲しいみたいな顔しやがって。乗れ!」


 トラブルは代表をにらむ。


「早く! 後続車が来るだろ! 早く乗れ!」


 トラブルは渋々、代表に従い後部座に乗り込んだ。


 代表の高級車はエアコンが効いて快適だったが、トラブルには棺桶に感じられた。


 代表は車を走らせながら、バックミラーでトラブルを見る。


「死にそうな顔をしているぞ。あいつらの宿舎に行っていたのか? 何かあったのか?」

  

 トラブルは顔を窓に向けたまま答えない。


「……まあ、いい。付き合ってもらうぞ」


 代表はそう言って車をソウル郊外に向けて走らせる。


 ボーっと流れる景色を見ていたトラブルは、知らない場所に来ていると気が付いた。


(ここは、どこ? どこに向かっている?)


 トラブルは住所を見ようと電信柱を探すが、速度が速く、見る事が出来ない。


 バックミラーの中のトラブルが、辺りをキョロキョロと見出したので、代表は声を掛けた。


「便所か?」


違います。


「何? 鏡文字で読めんぞ。ちょっと待て」


 ミラー越しの手話を代表は読む事が出来ず、車を路肩に停めた。後ろを振り返る。


「どうした。便所か?」


違います。どこに連れて行くつもりですか?


「この辺りに来た事がないのか? そうか……まあ、そうだろうな。行けば分かるさ。お、あそこのコンビニで休憩しよう」


私は必要ありません。


「俺が便所なんだよ」


 代表は滑る様に車をコンビニの前に停めた。


 ドアロックを解除し、トラブルに外に出る様にうながす。


 トラブルは大人しく従った。


 辺りは家も店もまばらで、木立ちの影が暑さを和らげていた。


 トラブルは大きく深呼吸をする。


(あー、空気が美味しいと感じるなんて何年振りだろう……)


「お、少しは生き返ったみたいだな。この先は何もないから今のうちに便所に行っておけ」


 代表は手を拭きながら言う。


(便所、便所って……はい、はい)


 トラブルもコンビニのトイレを借り、車に戻ると、代表がペットボトルの水を投げて寄越した。


「食い物は? 何かいるか?」


 トラブルは首を降り、受け取った水のボトルを開ける。


「そうか。乗れ、行くぞ」


 車は、山道を登り出す。


 両側の歩道はなくなり、対向車が来なくなった頃、小さな看板が見えて来た。


 トラブルは通り過ぎる瞬間、その看板を読んだ。


(墓地⁈ お墓に向かっている⁈)


 道路の舗装がなくなり、車は左右に代表とトラブルを揺らしながら狭い道を進む。


 突然、視界が開き、広い駐車スペースが現れた。


 代表の車はその一角に停車した。


「降りろ。荷物を置いていくなよ」


(は、はい……)


 トラブルは代表に続いて車を降りた。


 舗装されていない駐車スペースには一台も停まっておらず、代表の高級車は居心地が悪そうに見えた。


「おい。今、何時か分かるか?」


 唐突に聞かれ、トラブルはスマホを取り出す。


「こら、影を読めと教えただろ」


(影? あー……影の角度は……)


 トラブルは自分の影を見る。手話で代表に答えた。


現在時刻は12時……? くらい?


「くらいって報告があるか。で? 来た方角は?」

 

(方角? あっち)


 トラブルは上がって来た道を指差す。


「バカっ。拉致らちられた場所だ!」


拉致らち⁈ 私は拉致られたの⁈ えーと、ソウル市内は……あっち)


「そうだ。方角が分かれば、逃げ切れる」


(何の話をしているのやら……)


 トラブルは首を傾げて代表を見る。

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