第533話 さよなら、スハルト


「イム・ユンジュ先輩が医師団の本部に連絡をして、私をミン・ジウさんの元に行かせる様にと依頼したそうです。始めは何の事か分かりませんでしたよー。ミン・ジウさんが私を探しているのかと思いましたが、同じメダンにいると知っているのに、イム・ユンジュ先輩経由なわけがないしー、と」


 トラブルは、それでもまだ分からないと首を傾げる。


「んー、私も詳細は知らないのですが、先輩が言うには、ミン・ジウさんが飲まず食わず & 寝ずに働いているから倒れる前に保護しろと、誰かに言われたそうですよ。マリアちゃんに案内してもらって、本当に倒れていたので驚きましたよー」


 ヤン・ムンセはマレー語でマリアとコミュニケーションを取っていた。


 マリアは心配そうにトラブルの手を握っていたが、ヤン・ムンセに笑顔を向けられ、笑顔を返す。


「先生、トラブルは大丈夫?」

「大丈夫だよ」


 ヤン・ムンセは耳の不自由なマリアに、指でOKとして見せる。


 トラブルはソン・シムが代表に伝え、代表がイム・ユンジュ経由でヤン・ムンセを来させたと、やっと理解した。


(しかも、このタイミング良さ……私なんかより、スハルトをもらわないと)


 トラブルは起きようとするが、体はピクリとも動かなかった。


「今、無理をしたら今度こそ心臓が止まるかもしれません。そんな事になったら私が先輩に殺されます」


 仕方がなく、手話でスハルトの病状を伝えようとする。しかし、腕も重すぎて、やっと、スハルトとだけ伝える事が出来た。


「スハルト? 誰ですか?」

 

 ヤン・ムンセはマリアにマレー語を書いて質問をした。


「スハルトは友達よ。最近、具合が悪いの」

  

 マリアはマレー語で答え、トラブルにはイギリス手話で、先生にもらう?と、聞く。


 トラブルもイギリス手話で、カルテを……と、なんとか伝えた。


「スハルトのカルテを見て欲しいんだって」 

「分かりました。しかし、ミン・ジウさん、その手話は何語ですか? イギリス⁈ はぁー、すごいですねー」


(マレー語を操る、あなたの方がすごいですよ)


 トラブルは弱々しい笑顔で応えた。


 点滴を受けるトラブルを残して、マリアはヤン・ムンセをスハルトの元に案内する為に立ち上がる。


 トラブルは出て行く2人を見ながら、緑のファイルを見つけられなかったと悔やんだ。


(ごめん、スハルト。あなたに万が一の事があれば、私のせいだ……)


 いつの間にか、トラブルは眠った。




 


 病院の外の大きな物音で、トラブルは目を覚ました。


 辺りは、すっかり暗くなっている。


(何時間経ったんだ? 点滴は……抜かれている。この音は……ヘリコプター⁈)


 トラブルは窓から外を見ようと体を起こした。何とか足に力を入れて、立ち上がろうとしているとヤン・ムンセが部屋をのぞく。


「あ、気が付きましたか。スハルトは赤十字のドクターヘリでジャカルタに搬送します。今、ちょうど、到着したんですよ。一緒に来て下さい」


 ヤン・ムンセの肩を借りて、ヘリの爆音が響く外に出た。


 そこにはストレッチャーに寝かされたスハルトと母親らしき女性が寄り添う姿があった。


 赤十字のマークを付けた医師がマリアと話をしている。


 マリアはトラブルの姿を見つけると、手に持ったファイルを振った。


 トラブルは驚いて、そのファイルを指差す。


(そ、それ、緑のファイル⁈)


「トラブルー! トラブルが倒れていた所に落ちていたのー! 私が見つけたんだよー!」


 ヤン・ムンセの肩を借りたまま、赤十字の医師の元に行き、通訳をしてもらいながら今までの経過を説明した。


 赤十字の医師は、トラブルが書いた英語のカルテと養護の先生が書いたマレー語の緑のファイルを写真に撮り「ジャカルタの大学病院で検査をして、必要なら透析も行います。彼は、もう安心ですよ」と、言って、スハルトに寄り添う母親の元へ行った。


 スハルトの母は、トラブルに向かい、何度も頭を下げてヘリに乗り込んだ。


 体をベルトで固定されているスハルトが、細い腕を小さく振った。


「スハルトー! 元気になって帰って来てねー!」


 マリアは大声で叫び、大きく腕を振る。


 スハルトの小さな手がグッと握られ、ガッツポーズをした。


 スハルトの乗るドクターヘリは、友人達とたくさんの病院職員に見送られ、飛び立って行った。


 マリアはいつまでも手を振っていた。


 暗い空に小さな明かりすら見えなくなると、やっと、その手を下ろす。


「さあ! トラブルにご飯を食べさせないとねー」


 鼻を赤くしたマリアはトラブルを見て、努めて明るく言う。


(ああ、今日は食事に連れて行ってあげられなかった……)


 トラブルは、楽しみにしていたはずの炊き出しに連れて行けなかったとマリアと子供達に手話で謝った。


「ううん、食べて来たのよ。あの、看護師さんが連れて行ってくれたの。この、おじさんがスハルトを抱っこしてくれたのよ」


 マリアが見る先には、若い看護師と、例の偏見の塊の大男が立っていた。


「食事の時間なのにトラブルがいないってマリアが困っていて。私ではスハルトをかかえられないので彼に頼んだら……快く引き受けてくれました」


(今、間があったけど……でも、ありがとう)


 トラブルはヤン・ムンセの肩にぶら下がったまま、微笑んで大男に頭を下げた。


 大男は照れた様に鼻を掻き、ブツブツと何かを言いながら、近くの子供の頭をクシャッと撫でて立ち去った。


 若い看護師は、プッと吹き出す。


「『遠くの善人より近くの悪人』ですって。悪人の自覚はあったのねー」


 ヤン・ムンセは大笑いをしながら、トラブルに韓国語に訳して聞かせた。トラブルは意味が分からないと、首を傾げる。


「イスラムのことわざですよ。どんなに善人でも遠くにいては役に立たない、悪人でも近くにいる方が良いという意味です」


(なるほど、似たようなことわざが韓国にもあるな……あ、マズイ、意識が飛びそうだ……)


 力が抜けて行くトラブルをヤン・ムンセは「おっと」と、支えた。


 下からマリアも心配そうに手を伸ばして来る。


「先生、お願い。トラブルを治して」

「大丈夫。ご飯を食べて、しっかり寝れば良くなります」


 マリアはヤン・ムンセの言葉は聞こえないが、その笑顔を見て、ホッと安心する。

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