第532話 空腹は神経を尖らせる


「クソッ」


 代表は爪を噛む。


 事務局長は久しぶりにその癖を見た気がした。


「代表、そんなに気を揉む必要はないのではありませんか? ソン・シムさんは食事をする姿を見ていないだけで、働いてはいると言っているのですし」

「お前は、あの女を知らないだろ? あいつは、ぶっ倒れるまで無茶をするんだよ」

「しかし、倒れても病院内にいるわけですし」

「電気も水道もままならない病院で何が出来るって言うんだ。医薬品だって底をついているだろ」

「まあ、そうですが。では、文章を打って送信予約をしておくほかありませんね」


 事務局長は以前、トラブルを雇用する際に体調不安の件は聞いていた。


 重傷を負い、奇跡的に一命は取り留めたが後遺症があり、無理の出来ない体だと代表は言った。


(確か、少し前に貧血で倒れたと……それを心配している……?)


「健康チェックで合格だから派遣可能と判断されたわけですし、若いのですから。2週間くらい無理をした所でダイエットに丁度良いのではありませんか?」  


 事務局長は代表の懸念けねん払拭ふっしょくしようと明るく言うが、代表はジロリとにらみ返した。


「あいつの、どこがダイエットが必要なんだ。まったく、主治医に無茶をするなと……それだ! 医者! ほら、パク・ユンホの主治医の……えーっと、イム・ユンジュだ! 春の健診で来ていた医者がいただろ⁈ そいつなら、知り合いがメダンにいるとか何か……何でもいい。誰か、あいつにつながる人間が現地にいないか探し出しておけ!」

「今からですか⁈」

「今からだっ!」

「代表は、どこに行くのですか⁈」

「俺は焼肉の続きだ」

「えー……」

「経費で食われるより俺が自腹で払った方がいいだろ!」

「まあ、そうですが……」

「じゃあな。明日、朝一で報告しろ」

「え! 朝って!」

「徹夜しろよ!」


 開いた口が塞がらない事務局長を置いて、代表は焼肉店に戻って行った。


 送信予約の方が早く解決出来ますと、言いそびれた自分を恨むしかない。


「年寄りをコキ使って……年々、パワハラがひどくなっている気がする……」


 事務局長は、ボヤキながらも事務室に短期雇用者のファイルを探しに行く。






 トラブルは今日も暗い中、懐中電灯の灯りで学校の瓦礫がれき退かしていた。


 子供の遺体は、あらかた収容されたとは聞いていたが、それでも大きな材木を動かす時は慎重にならざる得ない。


 2ヶ所の保健室のうち、どちらに障害児の情報が書かれている緑のファイルが下敷きになっているのか分からない為、最初は2ヶ所を闇雲(やみくも》に掘り返していたが、そのうち、ある事に気が付いた。


 片方の保健室があった場所は、コンクリートのブロック屏が散乱し、もう片方は素焼きのレンガ作りだった。


(明らかに粗末な作り……こっちが障害児専用だ)


 トラブルは爪が割れ、指先が傷付いても素焼きのレンガを一つ一つ手で退けて行く。

 

 下を向いて作業をしていると、時々、眩暈めまいに襲われた。そのまま目をつぶり、おさまるのを待つと、いつの間にか15分ほど時間が経っている事が増えて来た。


(ああ……寝落ちしてた……昼に1時間寝たのだから、あと、23時間は動けるはず……)


 学校の瓦礫がれき撤去の作業員達は、毎日、必死に何かを探すトラブルを見て、子供を探しているのだと思っていた。


 しかし、もっと小さい物を探していると分かり「見つけた本や靴は、あそこに保管してある」と、教えてくれた。


 マレー語が分からないトラブルは、作業員の指差すテントに行ってみる。そこには、たくさんの子供の持ち物や教科書が並べられていた。


 英語の分かる、あの作業員はおらず、トラブルは誰の手も借りる事が出来ずに、当直の交代に行く時間になるまで緑のファイルを探し続けた。






 スハルトの熱は徐々に上がって来ていた。背負って食事に連れて行くが、体を起こすのも辛そうに、やっとスープを飲み込むのが、せいぜいになっていた。


 帰りもトラブルの背中にグッタリと熱い体を預け、トラブルは30分以上掛けて坂道を登って帰った。


 トラブルの働きの甲斐があり、手の空いたスタッフが子供達の相手をしてトラブルを休ませてくれる様になっていた。


 しかし、トラブルの手が空いた途端に医師達に呼ばれ、診療の補助を頼まれる。


 トラブルは文字通り働き続けた。


 スハルトの病状が悪化するにつけ、トラブルの焦りはピークを迎える。


(ダメだ。何としてでもファイルを探し出してスハルトの正確な情報を収集しなくては。そして、母親に連絡を……)


 あと2日で帰国する日が迫っていた。


 その日、トラブルは病院の仕事を休んで、朝から学校の瓦礫がれきの上にいた。


 焼ける様な日差しの中、必死にレンガを掘る。  


 指先の感覚がなくなって来た頃、突然、猛烈な空腹に襲われた。


(なんだ⁈ 今更、お腹が空くなんて……)


 トラブルは、まったく食べていないわけではなかった。マリアが心配するので、子供達の前では乾パンや氷砂糖をかじっていた。


 栄養の偏りは感じていたが、腹筋が割れ、腕の筋肉が付いて来たと体の変化を楽しんでいた。


 何よりも、神経が研ぎ澄まされて行く感覚が心地良かった。


(野生動物は、こんな感じなんだろうな……一度、病院に戻って何か食べてくるか)


 トラブルは立ち上がる。


 その瞬間、目の前が真っ暗になり、そのまま意識を失った。






 トラブルは誰かに体を揺さぶられ、目が覚めた。


(あれ。私、寝てた……?)


「ミン・ジウさん! 分かりますか⁈ つかまって下さい。病院に運びますよ!」


(いや、自分で歩き……体が動かない。この人は誰? え、ヤン・ムンセ?)


 ヤン・ムンセはトラブルを抱え上げ、マリアの先導で病院に戻った。


 1階の診察室にトラブルを寝かせ、その痩せた体を診察する。聴診器で胸の音を聞きながら、イム・ユンジュ医師の指示を思い出していた。


(先輩の言う通り、不整脈がひどいな……これは、危険なレベルだ)


「ミン・ジウさん、あなたは今すぐにでも帰国して精密検査を受けなくては、いけません。ですが、今は熱中症の治療をします」


 ヤン・ムンセは若い看護師にマレー語で指示を出す。


 薄目を開けて眉間にシワを寄せるトラブルに、ヤン・ムンセは点滴の準備をしながら、なぜ、自分がここにいるのか説明を始めた。

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