第73話 テオと手話


 トラブルは会社の前でカン・ジフンと別れ、医務室に戻った。


 医務室の前ではバイクの鍵を預けた照明スタッフが待っていた。


「バイクは問題なしだ。さっきメンバーが来てたけど会えたか?」


 トラブルは仕事用のスマホを見るがメールは届いていない。首を振る。


「ふーん。ほら、バイクの鍵。じゃあな」


 ペコッと頭を下げて見送った。


 トラブルは書類棚から所属タレントのカルテを探す。


 現在、この会社のアイドルはメンバー達だけだった。代表が『目の届く範囲でやりたい』と、以前パク・ユンホに言っていたのを聞いた事がある。


 メンバー達のカルテを見つけた。皆、異常なしだ。


(あ、ノエルの肝機能がギリギリセーフだ。毎日、飲酒しているな。セスも飲むはず……セスは問題なし。元々、強いんだな。テオは血糖値が高めだ。甘いものが好きで……うん、あまり水分を取らないから脱水もあるか? 嗜好や体質まで私と似ている)


 思わず微笑んだ。はたから見れば血液検査の結果を見て微笑む女など猟奇的に映るだろう。しかし、元は優秀な看護師だったトラブルにはデータを見ただけで相手の食生活まで把握する事が出来た。


 ニヤつきながらカルテ内に電話番号を探すが、宿舎の住所しか書いていない。


(イ・ヘギョンさんから返信はないし。何の用だったのか、宿舎に行ってみるか……)


 トラブルはリュックを肩にかけ、医務室を後にした。





 バイクを飛ばす。


 風が冷たい。けれど、心地よい。


(この子、本当に素直になった。以前は、じゃじゃ馬だったのにねー)


 フルメンテナンスをしてから相棒の乗り心地は最高だった。トラブルは、いい子と、バイクのボディーを撫でる。


 30分ほどで宿舎に到着した。


 エレベーターを最上階で降り、インターホンを鳴らして、しばし待つ。


 不在か? と、思うほど長く待ったあと、ドアの内側が慌ただしくなり、やっと開いた。


 ゼノがドアを押さえながら「や、やあ、トラブル」と、息を切らせる。


 トラブルは、ペコッと頭を下げ、医務室に来たみたいだからと、スマホのメモを見せた。


「あー、それで、わざわざ来てくれたのですね。えーと、少し待っていて下さい」


 ゼノは愛想笑いをしてドアを閉めてしまった。


 トラブルは閉められたドアを見ながら、大人しく待った。


 リーダーのゼノにドアを開けさせるなど、年功序列の厳しい韓国社会では下の者がやれと叱られる所だ。


 しかし、ゼノ自身が年長者であると威張らないので年下のメンバー達は実にのびのびとしていた。


 それがメンバー達の個性を伸ばし、今の人気につながっているのだが、本人は気づいていない。


(……それにしても遅いな)


 トラブルは意を決してドアを開け、無断で中に入った。


「わぁ、トラブル!」


 洗濯物を抱えたジョンが逃げて行った。


「あーあー、見られちゃった」と、ノエルがリビングの雑誌を拾いながら笑う。


「これは、この所、本当に忙しくて今日のオフも3か月ぶりで、でー……このありさまです」


 ゼノが言い訳をしながら頭をかく。


「勝手に入ってくるなよ」


 セスがキッチンで洗い物をしながらにらみ付けた。


「ジョン、これ洗い終わってるやつだよ。混ざっちゃったよー?」


 テオの声がバスルームからした。


 ふー……と、トラブルはリュックを床に置き、腕まくりをしてテオの声に向かう。


「え! トラブル! いやー! 見ないで〜!」


 テオの叫び声に脱力するメンバー達。


 洗濯機の前は足場がないほど洗濯物であふれ返っていた。


 大家族かっ! と、心の中でツッコミを入れつつ、テオに、まずは下着類だけ回させる。


 次にリビングの窓を開ける。


「トラブル、片付けを手伝ってくれるの?」


 ノエルの言葉にうなずき、作業開始だ。


 床に散らばるゲームソフトを集めてテレビ台に置こうとするが、その台が埃まみれだ。


 トラブルは指をパチンと鳴らす。


 全員がトラブルに注目した。


 セスに手話で掃除道具のありかを聞く。


「ああ。テオー! 風呂場から雑巾持って来ーい! ジョン、ベランダにバケツなかったか? ノエル、その辺りに掃除機が埋もれてるから探せ。ゼノ、俺の部屋に掃除用シートがある」


 セスの指示に速やかに動くメンバー達。


 セスは、トラブルの(わお!)と、驚く表情に肩をすくめながら洗い物を続ける。


 トラブルは、力持ちのジョンにテーブルの上に椅子を上げ、雑巾で椅子の足を拭くように指示をする。


 背の高いゼノにはカーテンを外してベランダで埃を払うように。


 テオにはゲームを、ノエルには雑誌を片付けるように伝えた。


 自分は乾いた掃除シートで埃という埃を取り、掃除機をかける。


 椅子の足を拭き終わったジョンとソファーを持ち上げて、忘れずに埃を吸い取った。


 テオに家中のゴミを集めさせる。すると、洗濯機がアラームで終了を知らせて来た。


 ノエルに乾燥機へ移させ、次の洗濯物を回す。


 お風呂場を覗くと意外と汚れていない。トイレも比較的きれいだ。


「テオが水回りの汚れが嫌いで、お風呂とトイレはいつも掃除してくれているんだ。散らかっているのは平気らしいんだけどね」


 ノエルが教えてくれた。


 そうだった、テオはキチンとしている人だったと、トラブルは思い出す。


 テオがゴミを集め、ノエルが新しい袋をかけていく。ゼノとジョンが協力してカーテンを取り付けた。


「うわー、短時間でこんなに片付くもんですねー」


 ゼノが驚きの声を上げる。


 もっと時間があれば窓拭きもしたかったですと、トラブルが手話で言うが、セスが丁度見ていなかった。


「?」と、首を傾げるゼノにテオが通訳をして聞かせた。


「はい、時間を見つけて年明けまでには窓拭きをしておきます」と、ゼノが頭を下げる。


 トラブルは目を見開いて驚いた。テオに手話をする。


いつの間に手話を聞けるようになったのですか?


「ふふん。驚いたでしょ。セスに教えてもらってたの。トラブルを驚かそうと思って」


驚きました。


「やった! 作戦成功だ。セス、トラブルの手話が聞けたよ!」

「俺が教えてんだから当然だ」

「もうー、素直に喜んでよ」


 破顔するトラブル。


「タイムラグなく意思の疎通が出来るのって、いいね」


 テオは照れながらも嬉しそうに言う。


はい、私も嬉しいです。


 2人は微笑み合う。

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