第409話 すべてを知る男
執務室に足を踏み入れたトラブルは、白衣のポケットに手を突っ込んだまま、チョ・ガンジンを
チョ・ガンジンは気が抜けた様に鼻で笑う。
「ふっ、何が確たる証拠だ。こいつ……検事さん、こいつは証拠なんて持ってませんぜ。弁護士さんも、代表の女だからって何でも信じちゃいけないなー。こいつが何を言ったのか知りませんが、女の言う事を間に受けるなんて、青二才のやる事ですよ」
チョ・ガンジンの不愉快な高笑いが響く。
代表は顔色一つ変えずに、低くく言った。
「おい、スマホを出せ」
トラブルは白衣のポケットから手を出す。その手には、白いスマホが握られていた。
「な!」
(踏み潰したはず! あのあと、ゴミ箱に入れて……いや、違うスマホだ。フェイクだ。俺をハメようとしている……)
「ほー。その、スマホが何だって言うのですか?」
代表はチョ・ガンジンを無視して「再生しろ」と、言う。
トラブルはスマホを操作して、皆に見えるように画面を向けた。
動画が再生される。
真っ暗な画面にチョ・ガンジンの声が流れ出した。
『……おい!何とか言え!』
『痛い!』
ハン・チホの声も入っていた。
画面は床を
黒いスマホが時々、
チョ・ガンジンがハン・チホの胸ぐらを
しばらくして、『金を運んでくるカモなんだよ!』『いい気になりやがって!』『俺の言う事を……』『俺の事務所からデビューさせてやる』『俺の言う事だけを』『クソガキがっ』
そう言った後、チョ・ガンジンがハン・チホを床に叩き付けた。
スマホに、
代表が「今の音は、
『お前、医務室の……』『俺の計画を誰から聞いた!答えろ!』
チョ・ガンジンの怒号の後、薄気味悪い笑い声と『こうだ!』と、同時にガチャンッと何かが割れる音が聞こえた。
チョ・ガンジンの声とバタバタと慌ただしい足音がして、白いスマホの動画は途切れた。
チョ・ガンジンは白いスマホを凝視し、ギリギリと
「こいつには業務用に、もう1台持たせてあったんだよ。まさか、2台で撮られていたとは夢にも思わなかっただろ」
代表は腕を組んだまま、ほくそ笑む。
弁護士は、映像に加工がない事を鑑定した結果も添付されていると説明した。
「ふざけんな! ふ、ふざけんな……」
チョ・ガンジンの威勢は姿を消し、肩を落として床を見る。
検事補はチョ・ガンジンの権利を読み上げ、ドアの前に立つ2人に合図を送った。2人の男は、チョ・ガンジンの腕を
「えーと、今は……」
検事補が日付と時間を確認し「逮捕」と、言いながらチョ・ガンジンの前に逮捕状を見せた。
「逮捕状が出ているので、本来なら、こんな時間を取る必要はないのですが、被害者から、あなたに罪をしっかりと自覚させたいと申し出がありましてね。ま、そんなわけで、今から警察に行きますよ。手錠は……車の中でしましょうか」
検事補は逮捕状を、チョ・ガンジンの腕を
2人は検事補と代表に敬礼をして、チョ・ガンジンを引き連れて出て行った。
弁護士は検事補と握手をしながら「ご協力ありがとうございました」と、頭を下げる。残務整理をする為、代表とトラブルにも頭を下げて執務室を出て行った。
トラブルも自分の役目は終わったとペコリと頭を下げ、執務室を出ようとした。すると、検事補はなぜか懐かしむ目を向ける。
「こんな所で再開出来るとは、思いもよりませんでした」
思わぬ検事補の言葉に、トラブルは首を
「お元気そうで、何よりです。……私を覚えていませんか」
「あの日、アヘン街でお前を見つけた奴だ」
代表に言われ、トラブルは記憶の糸を探る。
(アヘン街……あの日、警察と軍による一掃作戦が……私は、そう、そこにいた。何をしていた? 笛の音から逃げて、ライトを避けて……)
トラブルの脳裏に鋭い笛の音が響く。叫びながら逃げ惑う売人と娼婦達。制服の男達が次々とジャンキーを捕まえる。
必死で逃げた恐怖が蘇って来る。トラブルの瞳孔は開き、呼吸が荒くなった。
「おい、待て! マズい!」
代表は机の向こう側から、トラブルに駆け寄ろうとする。すると、検事補が代表よりも早く、トラブルの肩を揺さぶった。
そして、今では知る人の少ないトラブルの本名を叫ぶ。
「しっかりしなさい! ミン・ジウ! それは、あなたの記憶です! 夢ではありません! 現実に、あなたに起こった事で、私はその場にいました!」
(そこに、いた? この人……そうだ、私にチョコレートをくれた人……)
トラブルは、しっかりとした視線で検事補を見た。
「戻ったか……」
代表はホッとして、上げた腰を下ろす。
「あれから何年も経っているのに、今だに記憶が断片的なのですね」
検事補はトラブルを見て、そして、代表に言う。
「彼女にカウンセリングをさせてないのですか?」
代表はバツが悪そうに「ああ」と、答えた。
「
「ああ。だが、記憶というモノは歳月と共に薄れて行くものだ。忘れたい事は忘れていればいい」
「果たして、そうでしょうか? あまりに断片的な記憶は、都合の良い夢を見させてくれるかもしれませんが、時に悪夢も生み出します。自分の実体験をしっかりと認識し、その後に忘れる、忘れないを選択すれば良いのではありませんか?」
「それは正論だが、悪夢よりも恐ろしい体験を思い出した時、人は正常でいられるか? 曖昧な記憶に助けられる事もある」
「……私は詳細を知らされていないので……すべてを知る、あなたに
検事補は代表に頭を下げ、トラブルに話しかけた。
「ミン・ジウさん。私はアヘン街であなたを見つけ、数日、世話をした者です。あなたと出会い、社会的弱者を救う為には、どうしたら良いのか考える様になりました。そして、私は弁護士になろうと決心しました。あなたの、その後が気になっていましたが、風の便りで、あなたが大佐の愛人だったと聞いて、
検事補は、トラブルに頭を下げ、そして代表に軍隊式の敬礼をして、部屋を出て行った。
代表は自分のデスクの椅子に、ドサっと座り直す。
「座れよ。顔色が悪いぞ」
トラブルは代表に言われても、その場に立ち尽くしていた。
そんな姿を見て、代表は天を仰ぐ。
「俺だって、すべてを知るわけではない……」
代表は、そう前置きをして、昔話を始めた。
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