第330話 戻って来ない


 トラブルの口は『テ・オ』と動いた。しかし、空気の漏れる音しか聞こえない。


 トラブルは下を向き、手話で言った。


ごめんなさい。


「あ、謝らないでよ! 聞こえたよ、トラブルの笑い声聞いたから。すごいよ。本当、すごい事だよ」


 テオはポロポロと涙を流した。


テオ! 泣かないで下さい!


「だって、嬉しいんだよー」


 トラブルはテオの涙をティッシュで拭き取り、テオは、そのティッシュで鼻をかむ。


「あーあー。テオ、ベースメイクがボロボロだよ」


 そう言うノエルも目を赤くしている。


 ゼノがひときわ大きな音を立てて鼻をすすった。


「良かった。本当に良かった」


 なぜだかテオよりも大粒の涙を流していた。


「ゼノ、泣き過ぎでしょ!」

「スミマセン。でも、奇跡ですよ。しかも笑い声だなんて幸せですね、テオ」

「うん。ゼノ、ありがとー!」


 2人は肩を叩き合い、そして抱き合って感動を共有した。


「僕のおかげだ」


 腰に手を当てて自慢げに言うジョンの鼻も赤い。


「なんで、ジョンまで泣いてるのさー」


 ノエルは笑いながらティッシュを差し出した。


「だって、さっきは怖かったし……僕達、空中分解しそうだったじゃん」


 ジョンはズズッと鼻を鳴らした。


「空中分解って何なのー」


 ノエルは微笑みながらティッシュ箱を投げて渡した。


「ジョン、ジョンのお陰ですよ。笑わせてくれて、ありがとうございます」


 ゼノに言われ、ジョンは「へへ……」と、頭をかく。


「笑わせたんじゃなくて、笑われたんだろ」


 セスは立ち上がりながらズボンのすそを払った。そして、顔を上げ、真剣な眼差しをノエルに向ける。


「ノエル、ツアー中は俺を見張っていてくれ。俺のスイッチが入りっぱなしになっていたら止めてくれ。ワールドツアーが終わったら……病院に行く」

「うん、分かったよ。でも、トラブルがいる間は大丈夫だね。トラブルはアメリカの途中でトレーナー交代なんだよね?」


 ノエルはトラブルの顔を見る。


 トラブルは真顔に戻り、うなずいた。


「その事なんだが……お前、明日ノエルと一時帰国だよな?」


 セスはトラブルと視線を合わせずに、チラリとテオを見て言った。


「セス? そうだよ。トラブルはノエルの受診に付き添うけど、それが、どうしたの?」

「トラブル……お前、もう来ない方がいいんじゃないか?」

「な! 何でそんな事、言うんだよ!」


 テオは驚いてトラブルを守る様にセスと対峙たいじした。


「テオ。こいつはダテ・ジンにゼノと無関係だと見抜かれた。ア・ユミはメンバー全員との関係に疑問をいだき始めている。これ以上、一緒にいるのは危険だ」

「危険って……」

「あの2人は俺達を近くで見ている。うちから連れて来たスタッフは、俺達の事を気にもしないだろうが、あの2人にテオとの事がバレるのは時間の問題だ。親戚じゃないって事も付き合っている事も」

「そんな……」


 ノエルは大きくうなずいた。


「テオ。ア・ユミさんに子供時代のトラブルの事を聞かれたら、どうするの? さっき、僕とも幼馴染みなのかって突っ込まれたよね? セスの言う事を聞いておいた方がいいよ」

「ノエル、そんな……」

「それとね、ダテ・ジンさんがトラブルに夢中になる前に、離しておいた方がテオの為だよ?」


 テオとトラブルは、見つめ合う。


「で、でも、また貧血を起こしたら頼れるのは僕達しかいないんだよ?」


 テオの声は震えていた。


 ゼノは、少し強めの口調で言う。


「ダテ・ジンさんのお父さんは、釜山プサンの日本領事館の総領事と言っていましたよね? ダテさんが、トラブルを調べて欲しいなどと頼みでもしたらマズい事になりますよ」

「赤いパスポートの理由を誰も説明が出来ないね」

「ノエル、その通りですね。テオ、アメリカに行く前に一度帰国するので、その時に会えますよ」


 ゼノの言葉に、テオは首を横に振った。


「僕、その時、家族と会う約束をしてるから会えないよ……」

「ツアー中でも、何度か帰国するから大丈夫だよ。ね、テオ」

「……なんで皆んな、僕を説得しようとするの? トラブルはどう思う?」


 メンバー達に注目される中、トラブルはテオに向けて手話をした。


本当は、名古屋公演が終わってから言おうと思っていたのですが……私はアメリカ渡航申請のESTA《エスタ》の認証がまだ下りていません。認証許可が下りなければ、渡米する事は出来ません。


「そんな! あのパスポートのせい⁈」


おそらく。日本よりも審査は厳しいようです。


「そんな……でも、ノエルの受診の後は来るよね?」


……また、私の入国審査に時間が掛かってしまうかもしれないので、帰国自体を迷っていました。でも、ノエルのレントゲンは直接見たいです。テオ、ごめんなさい。もし、出国審査に時間が掛かる様なら、訪日をあきらめます。


「じゃあ、じゃあ、また、成田に着けたら入国に時間が掛かっても、埼玉に来てくれるよね?」


もちろん。日本まで来て帰る事はしませんよ。


「出国審査って韓国を出る時だよね? 昨日は大丈夫だったんでしょ?」


はい。でも、時間は掛かりました。なので、次はさらにチェックが厳しくなると思われます。


「え? 一度は大丈夫なのに、次の方が厳しいの?」


頻回で小刻みな渡航は疑われます。パク・ユンホも世界中を回っていたので、仕事は何だと、毎回、しつこく聞かれていました。


「疑われるって、どう言う事?」


 テオの声は震えたままだった。

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