第648話 悪夢の理由


「俺は、脳なし中将ちゅうしょうの部下として情報を集めていた。少しでも大佐に不利な動きがあれば、それを大佐に報告して潰すのが俺の任務だった」


 それを聞いたセスがつぶやいた。


「潜入していたのか」

「そうだ。それが、予定よりも早く大佐から連絡が入った。3日間、自分を不在にして中将ちゅうしょうが何かを企んでいると……女を守れとな」


 代表はパン・ムヒョンだけを見て言う。


「その時、俺が持っていた情報は、噂の女の身元調査で何もつかめずにイラつく脳なしの様子だけだった。狭い軍内部で何かことを起こせば、すぐに上層部に知られる。俺は、脳なしが大袈裟に動くだけの根拠がないので問題はないと進言したが、大佐はひどく警戒していた。俺は脳なし共が何をつかめてのか調べる事にした」


 一息、く。


「女の顔写真から渡航歴がなく、パスポートも持っていないと把握していた。それは、名前も年齢も住所さえも不明の人物って事だ。しかし、確かに大佐の宿舎を隠し撮りした写真には若い女が写っている。脳なしは、何としてでもこの機会を逃したくはなかった。逃せば1年後には大佐に中将ちゅうしょうの座を奪われてしまうからな。そこで、脳なしは大胆な計画を立てた。俺がその計画を知った時には、すでに……こいつは尋問室に連行されていた」


 俺のミスだと、代表は眉間のシワを深くした。


「脳なしは、こいつにスパイ容疑を掛けて拷問すれば何か吐いて大佐を弾劾出来るだろうと踏んだんだ。こいつは大佐のいない3日間……椅子に縛られて水を浴びせられて……拷問された」


 パン・ムヒョンの声が震える。


「そ、それが君の悪夢の理由かね? そんな、現代に、そんな暴挙が……」

「脳なしは、それほど追い詰められていた。しかし、こいつはどんなに責められても痛い目にあっても、何も言わなかった。薄笑いを浮かべて……喋れないなんて想像もしてなかっただろうな。奴らは口の利けない女を殴り飛ばして食事も与えなかった」


 代表はチラリとトラブルを見る。


「笑うなと耳打ちしてもこいつは薄笑いを浮かべて……お前も悪いんだぞ。ヘラヘラと笑いながらあいつらを刺激しやがって」


 代表は自分の額に手をやる。


 トラブルは皆に向けて代表を擁護ようごした。


「代表は、気付かれない様に私を守ってくれていました。『殴られる瞬間に奥歯を噛みしめろ』『水を掛けられたら少しでも飲め』と、チャンスがあるたびに耳元で……レイプされそうになった時は『こいつは病気持ちだからやめておいた方がいい』と、守ってくれた。私も話を合わせ、太ももをこすり合わせる演技をしました」


 恐ろしい記憶をトラブルは懐かしそうに話す。


 セスは、以前トラブルがインフルエンザを偽装した事を思い出した。

(第2章第556話参照)


(何がアシスタント時代だ……タヌキめ)


 代表をにらむが、代表は眉毛をピクリとさせただけで、しらばっくれた。


 トラブルは続ける。


「3日後、大佐になって戻ったガン・チョンスは私の姿を見て、泣いて謝ってくれました。それからの彼の行動は早かった。まず、養母を探し出し戸籍を外させ、私を養女にしました。大将たいしょうに許可を取り、一時的に住まわせていた障害のある娘を、中将ちゅうしょうが暴行したと軍法会議にかけて失脚させ、取り巻き達もバラバラに解体してしまいました」


 なに!と、セスが立ち上がった。


「お前! 養女になった理由は兵役逃れビジネス絡みだと……嘘だったのか⁈」

(第2章第307話参照)


 代表にはセスが驚く理由が分かる。


「セス、すまんな。本当の事を言うわけにはいかなかったから、少し歪曲わいきよくさせてもらった」

「俺が真実を見抜けなかったのか⁈」

「事実だ。俺が提案して俺が動いて養女にさせた。その後、パク・ユンホがパスポートを取らせたのは事実だ。少し……前後関係と理由を変えただけだ」

「待ってくれ。養女になったのは暴行された後だろ? それでは裁判で勝てない……」

「その時は法的にはそうでなくても、今は娘なんだ。大佐の娘である事が重要なんだよ」

「じゃあ、大将たいしょうの許可ってのは? そんな許可は取らずに、こいつを住まわせていたんだろ?」

「だから、大佐は大佐のままで退官したんだ。この意味、分かるか?」

「……分かった」


 セスはブスっと座った。


 パン・ムヒョンは、意味が分からないと、肩をすくめる。


大将たいしょうが、許可を出したと口裏を合わせてくれた理由はなんだい? まさか、大将の弱みも握っていたのかい?」

「利害の一致ですよ、先生。大将たいしょう中将ちゅうしょううとましく思っていた。そして、昇進の早い大佐を恐れていた。大佐は、それ以上の地位は望まないと約束をしたんです」

「それで大将たいしょうは裁判に協力を……」

「そういう事です」


 代表はセスと向き合った。


「こいつの傷が治るのを待って家に送り届け、そのまま延長していた兵役を終わらせたんだ」

「で、父親の会社を引き継いで、見張るのではなく、見守ったんだな。大佐が人生をけた奴だから……」

「俺のミスだからだ。俺がもっと早く情報を確保していれば、大佐は歴史に残る名将めいしょうになっていたし、こいつは悪夢に苦しむ事もなかった」


 取り返しの付かないミスだったと、代表は悔やんで言う。


 トラブルは微笑んだ。


「いい事もありました。監禁されて2日目の夜、ありえないほどお腹がグーグー鳴って……思わず笑うと殴られるし、自分で止められないし。甘い物は嫌いだったのですが、夜中に代表が食べさせてくれたチョコレートケーキが美味しくて、それ以来、チョコの美味しさに目覚めました」

「ふん。部屋で笑う奴を始めて見たからな。頭がおかしくなったと思って糖分を与えただけだ」

「本当に美味しかったですよ」

「血の味しか、しなかっただろ」

「いえ、美味しかったです。折れた歯を一緒に飲み込んで、窒息しそうになりましたけどね」

「危ないなぁ」

「ですよねー」


 アハハーと、2人は笑い合う。


 2人があまりにも何でもない出来事の様に笑うので、皆は特大のスキャンダルを知ってしまったと感じなかった。


 ただ1人、セスだけは内容の重大さに震えが止まらない。


(こいつ1人の為に、何人が人生を狂わされた?)


 そして、1つの矛盾に気が付いた。

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