第432話 不思議なあの子


 翌朝、ノエルは予定よりも30分遅れて目を覚ました。


(あー、寝過ごした……)


 隣で眠るテオを起こさない様に、そっとまたいでベッドを降りる。


 マネージャーが迎えに来るまで、あと30分。急いで身支度を整えた。


 冷蔵庫の冷えた水を飲む。


 玄関の鍵が開く音がして、マネージャーは皆を起こさない為にインターホンを鳴らさずに入って来た。


 キッチンのノエルを見て、微笑む。


「おはようございます。さすが、起きていましたね」

「当たり前じゃん。さ、行こう」






 ソウル中央病院の駐車場で、トラブルはバイクを停めて待っていた。


 マネージャーはバイクの横に車を停めて、ノエルを降す。


 早朝のソウルの空は快晴で、空気が乾燥し、秋の気配を強めていた。


「トラブル、おはよう」


 ノエルが声を掛けると、トラブルはペコリと頭を下げ、先導して裏口に案内した。


 マネージャーが職員通用口の警備員に来院理由を告げる。


 警備員はノエルの顔を見て、整形外科外来に内線で確認を取り、うなずいて3人を通した。


 清掃員だけが忙しそうに働く外来で、2週間前に診察をした医師が笑顔で3人を出迎える。早速、レントゲンを撮るとノエル1人をレントゲン室に連れて行った。


 診察室の中で待つトラブルは、人気ひとけのない事を確認して、無断で電子カルテを操作し始めた。


「ちょっと! 何、やっているんですか⁈」


 驚くマネージャーに、シーッと口に指を当てて言い、ノエルのカルテを開く。


(侵入事件があってもパスワードを変えないなんて……本当いい加減な病院……)


 トラブルは鼻で笑いながら、電子カルテを操作する。


「ここの病院のIDとパスワードを持っているのですか⁈」

(第2章第234話参照)


 マネージャーは小声で言う。


 トラブルはそれを無視して、ノエルのレントゲン画像を開いた。


 たった今、撮り終わったばかりの画像が表示される。トラブルはその画像に顔を近づけて見た。


 少しして、遠くから医師とノエルの声が聞こえて来た。


 トラブルが速やかに電子カルテを閉じて、マネージャーの後ろに立った瞬間、医師は「では、レントゲンを見てみますね」と、ノエルと共に入って来た。


 マネージャーはポカーンと口を開いたまま、後ろの素知らぬ顔のトラブルを仰ぎ見る。


「ん? マネージャー、どうしたの?」


 ノエルはマネージャーの隣に座りながら聞いた。


「い、いえ。何でもありません」


 マネージャーは医師に視線を移し、医師はノエルのカルテを開いてレントゲン画像を検索する。


「あれ、新着に入ってないな……あー、ここにあった。えー、うん、骨は付いていますね。治っています。ギプスを外しましょう」


 医師の言葉にノエルは「やったー」とマネージャーと笑顔を交わす。


 医師は小型の電動カッターで、ノエルのギプスをカットした。


「うわー。僕の右手、1ヶ月ぶりだよー」

「動かしてみて下さい」


 ノエルは、ゆっくりと指を曲げ伸ばし、手首を回した。


「痛みませんよね?」

「はい、大丈夫です」

「握力は、普通に生活をしていれば戻ります。無理をしない様に」

「はい。ありがとうございました」


 ノエルら3人は医師に頭を下げ、診察室を出る。


「右手が臭いよ」


 そう笑って、ノエルは外来のトイレに手を洗いに行く。トイレから出ると、すでにトラブルの姿はなかった。


(テオを迎えに行ったんだ……)


 ノエルはマネージャーに、天気が良いので散歩をして帰るからと伝え、マネージャーを帰した。


 1人、病院を出て、隣接するオリンピック公園を目指す。


 久しぶりに外の空気に触れた右手をさすりながら、睡眠不足でボーッとする頭で、のんびりと歩く。


(良い天気だけど、まぶしいなぁ……お腹が空いた……)


 自動販売機でジュースを買う。右手でペットボトルのフタを外し、思わず右手に話し掛ける。


「やっぱり、君が必要だね」


 その時、ノエルの頭の中に白いキャンパスの映像が浮かんだ。


(あの子だっ)


 辺りを見回すと、女性が1人、ノエルと同じジュースを持って、こちらを見ていた。


 ノエルが、1歩、そちらに踏み出すと、女性は後退あとずさりして立ち去ろうとする。


 ノエルは足を止め(僕の声が聞こえる? 僕には君の声が見えるよ)と、心で話し掛けた。


 女性は足を止め、じっとノエルを見る。


 ノエルの頭の中に、大きなクエスチョンが浮かんだ。


 ノエルは微笑む。そして、声を出して話し掛けた。


「そんなに不思議? まあ、僕も始めての感覚だけど……前にも、会ったよね。覚えてるかな?」

(第2章第341話参照)

 

 女性は小さくうなずいた。


「良かった。あの……今、時間あるかな」


 女性は後退りをする。


(あれ。僕の事、知らないんだ……)


「待って! あの、初対面で警戒しないで欲しいんだけど、会いたいと……話をしたいと思っていたんだ。こんな風に意思疎通が取れる人とは、滅多に会えないでしょ? だから、もし、時間があれば話をしたいんだ……どうかな? ……ジュースの好みも似ているみたいだし」

 

 ノエルはペットボトルを振って見せる。


 女性は少し笑った。


 ノエルも微笑みながら、女性に近づいて行く。


 遠目で見たよりも女性は小柄だった。女性というよりも少女に近い。白いエプロンに絵具が付いている。長い髪を無造作に束ね、大きな黒い瞳は、まだノエルを警戒していた。


(本当に僕の事、知らないんだ……)


 ノエルは優しい声で言う。


「絵を描くの? 絵具が付いてる」


 女性は自分のエプロンを見下ろし、恥ずかしそうにエプロンをまくり上げた。


 ノエルの頭にピンクのモヤモヤが浮かぶ。


「ん? 僕の髪の色? だいぶ薄くなっちゃったけど、変かなぁ?」


 ノエルは前髪をつまんで伸ばす。


「なぜ、その色を選んだの……?」


 女性はつぶやく様にノエルに聞いた。

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