第92話 チェ・ジオンの家


「しかも…… 」


 弁護士は続ける。


「叔父さんの当時の認知能力の欠如が裁判所で認められればパク氏との売買契約が無効になるばかりか、詐欺事件と立件されかねません」


詐欺⁈


「はい。叔父さんは若年性アルツハイマーと診断されて投薬治療を受けていました。私はパク氏の依頼で契約を急ぎました。当時は意思決定能力があると判断しましたが、今ははっきり言って自信がありません」


そんな。


「チェ・ジオン氏は光熱費の支払いを自分名義の口座に変えていたので、裁判所はあの家はチェ・ジオン氏の所有物であり、御両親が正当な相続者と認めるでしょう。婚約式の前にチェ・ジオン氏が亡くなったので、本来ならあなたに相続権は発生しません」


なぜ、そんな事を…… 。


「パク氏は、あの家をいたく気に入っていました。理由は分かりませんが、あなたが自立する時に必ず役に立つと言っていました」


《人生を楽しむ天才》の真意は長年仕えて来た弁護士にも理解が出来ない。


「あくまでも可能性がある、という話です。しかし、チェ・ジオン氏の御両親には、このまま知らないか、忘れたままでいてもらわなくてはなりません。この件は決して口外しないように。ご理解頂けましたか? 」


 トラブルは顔を上げる事が出来ない。


「…… パク氏が亡くなった今、あなたは住む家を探しているのではありませんか? これは個人的な意見ですが、あの家には家具やチェ・ジオン氏の仕事道具がそのまま残されています。一度見に行って下さい。あの家には、あなたが相応ふさわしい」


 弁護士は古びた鍵を差し出した。


 トラブルは震える手で受け取る。


 ぎゅっと鍵を握り、顔を上げて真っ赤になった目で真っ直ぐに弁護士を見る。


ありがとうございました。


 トラブルは深々と頭を下げ、弁護士は帰って行った。





 一方。医務室を出たメンバー達は自分達の控え室へ戻る為、エレベーターに乗り込んでいた。


 エレベーターのドアが閉まった瞬間、テオが「トラブルとチェ・ジオンさんの家って何⁈ 」と、ノエルに迫る。


「知らないよ! 気になっていたの?」

「家って何⁈ 2人の家って⁈ 」

「騒ぐな。婚約してたんだから結婚してから住む家があったって、おかしくないだろ」


 セスが、うるさいと目で言う。


「同棲していたかも、しれませんしね」


 ゼノの言葉に未成年のジョンが素早く反応した。


婚前交渉こんぜんこうしょう! 」


 ジョンが叫んだ瞬間、エレベーターのドアが開く。廊下のマネージャーがこちらを見て固まっていた。


「バカっ」


 セスがジョンのえりつかみながら、控え室に入って行った。3人もそれに続く。


「はぁー」


 テオはソファーに座り込む。


「テオ、そんなに気になっていたのにカッコつけてたの?」

「だって、トラブルが困ってたからさ。決めてあげた方がいいかなってさ」


 テオはねた様に言う。


「カッコ良かったぞ」


 セスが珍しく褒めた。


「本当?」

「ああ。お前にしてはカッコ良かった」

「なんか、引っかかるけど?」

「考えない考えない」


 ゼノがフォローにならないフォローをする。


「テオ、トラブルに服、気が付いてもらえて良かったね」


 ノエルが話題を変えた。しかし、末っ子はお気に入りになったフレーズを面白がって叫ぶ。


「こんぜんこうしょう〜!」

「ぼく、〇〇えもん みたいに言うな!」


 セスのツッコミに大笑いのメンバー達だった。


 バカ笑いをしていると控え室のドアが開く。


 マネージャーが「大声でなんて事言ってるんですか」と、入って来る。


「皆さん、最近ダンスレッスンをさぼりすぎです。先生が怒っていましたよ。あと、全員太って来ました。いろいろ、さぼりすぎです。まったく、あなた達はー…… 」


 マネージャーのお小言を聞きながら、テオはトラブルを想う。


(1人にして大丈夫かな…… )





 トラブルは医務室のパソコンの前に座り、手の平の鍵を見ていた。


(懐かしい、この形。この鍵が気に入って、あのドアを選んだんだ。あの人はいつもそう。人と正反対の発想をする。私の後ろ姿を撮るのが好きだった…… )


 ふと、顔を上げる。


(だった? 今、私、過去形で思い出している。

そういえば、彼の事、思い出したの久しぶりだ。涙が出て来ないな。なんだろう、この晴れ晴れとした寂しさ…… )


 うーんと、伸びをした。


(あー、誰かと彼の話したいなぁ)


 トラブルは鍵をポケットにしまい、水を取ろうと冷蔵庫を開ける。


 そこには小さなケーキの箱があった。


 箱の上に《トラブルの分。食べるな!》と、書いてある。


 箱を開けると、チョコレートケーキが入っていた。賞味期限は今日までだ。


 トラブルはチョコレートケーキを取り出す。


(テオの字かな? 冷蔵庫を開けなければ賞味期限切れになっていた所だ。言い忘れてたなー)


 左手にチョコレートケーキを持ち、右手をキーボードに置いて、カルテ情報を入力していく。


 ペロリと指を舐めると、後ろから「お行儀が悪い」と、声が掛かった。


 思わず笑顔で振り向くトラブル。


 案の定、テオが一人で立っていた。


「弁護士の先生、帰ったの?」


 トラブルは、はいと、返事をしながら、テオに抱きつきたい衝動を抑える。



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