第405話 『フリッツ・コレクション』


 テオはノエルの連絡で、朝食のブッフェ会場に顔を出した。


 ノエルは手を挙げてテオを呼ぶ。ノエルの横には笑顔の母の姿があった。


「テオ、おはよう。お母さんがテオの部屋が分からなくなったって聞きに来たからさ、一緒に食べる事にしたんだよ」

「テオの部屋番号を忘れちゃったのよ。朝から違う部屋をノックして、ご迷惑をかけてしまったわ」

「そ、そうだったんだ。ノエル、部屋で食べたかったんじゃないの?」

「ううん。たまには、にぎやかなのもイイと思ってさ」

「そうなんだ……ごめんね」


(母さん、僕の部屋を間違えたと思ったんだ)


「ねぇ、テオ。ほっぺが赤いけど。こっち側」

「あら、本当。ぶつけたの?」

「あ、うん。ううん、大丈夫」


(トラブルに平手打ちされたなんて、言えない……)


「もう、相変わらず、うっかり屋さんなんだから。冷しなさい」

「うん」


 ノエルが席を立つ。


「テオ。部屋のメニューにはない料理があるから見に行こうよ」

「あ、うん。僕……公演前は、あまり食べない様にしているから」

「まあ、まあ。デザートだけでもさ。こっちだよ」


 ノエルはテオを連れてテーブルを離れた。母から見えない位置まで来ると、テオの肩に手をかける。


「お母さんが見たのってトラブル?」

「うん、そう。僕がシャワーを浴びている間に、母さんがノックしたみたいで……」

「やっぱり、そうだったんだー」

「母さん、何か言ってた?」

「ううん。ただ、テオの部屋をノックしたら知らない女の人が出て来て驚いたって。特徴を聞いたら、トラブルじゃん? テオの部屋番号を教えてって言うから、マズいと思って朝食に誘ったんだ」

「うう。ノエル、ありがとうー。 危うくニアミスする所だったよー」

「いや、ニアミスしたから。トラブルは?」

「……帰っちゃった」

「ええ⁈ 本当に?」

「本当の本当……」

「テオー、その顔……何したのさ。いや、何もしなかったのかな?」

「うう……聞かないで下さい」

「ま、話は後で聞くよ。デザート取りな」

「はーい……」






 一方、ジョン・F・ケネディ空港に向かうタクシーの中で、トラブルは右手をさすっていた。


(もう、あれが別れの言葉⁈ テオってば、最低ー……)


 テオがトラブルにささやいた言葉は『オッパイ見せて』。 


 右手は考えるよりも早く反応し、思ったよりもスピードのある、重い平手打ちになってしまったが、トラブルはそのまま荷物を持ち、無言で部屋を出て来た。


(強過ぎたかな……いや、あれは全面的にテオが悪い……冷やしてるかな? いや、いや、テオが悪い……爪は当たってないと思うけど、傷になっていたら……あー、後でラインしよう)


 トラブルは、大韓航空のチェックインカウンターで仁川インチョン空港までの空席状況を確認する。






 朝食後、ノエルはテオとテオの母を、アッパーイーストサイドにある小さな美術館に連れて行った。


 タクシーで『フリッツ・コレクション』と伝えるだけで、間違いなく運んでもらえる有名な美術館で、フェルメール、ルノアール、レンブラントを所蔵しており、ノエルは1度、行ってみたかったと目を輝かせた。


 テオの母は絵画はもちろん、美しい邸宅と庭園に感動し、テオは満足している母を見てノエルに感謝した。


「ノエル、ありがとう。僕、フェルメールって始めて生で見たよ」

「母さんもよ。メトロポリタン美術館と近代美術館は行った事があるけど、ここは、始めてよ。素敵ねー。お父さんも連れて来てあげたいわー」

「父さんは絵画が好きだから喜ぶね。ノエル、こんな所をよく知っていたね」

「あのね、ここは有名な美術館なんです。来たいと思っていても、なかなか機会がなかったから、ちょうど良かったと思って」

「うん、いつもはホテルで休んでいるだけだもんね」

「せっかくの海外だからねー。でも、そろそろ帰らないとかな?」

「あら。もう、コンサートの時間?」

「いえ、周りにバレて来てるので騒ぎになる前に帰りましょう」


 ノエルは、テオの母の背中を押して足早にタクシーに乗る。


 タクシーの中でノエルは謝った。


「お母さん、本当は観光をさせてあげたいけれど、僕達はあまりゆっくりする時間がなくて。すみません」

「いいのよー。連れて来てくれて、ありがとうね。テオに会えて、観光までさせてもらって幸せだわ」


 テオの母は心を込めて言う。ノエルは、いつも笑顔で機嫌の良い親友の母に、癒される思いだった。


(本当に素敵な人だな……)


 ノエルは笑顔を返し、子供の様に窓の風景に目をキラキラさせるテオの母に見入った。


 ノエルの視線をテオがさえぎる。


「僕の母さんを変な目で見ないで下さい」

「ここにも、テオに似た女の人がいたと思ってさー」

「何の話さ」

「何でもないよー」

(第2章第120話参照)


 ホテルに戻った3人は、マネージャーに会場入りの時間を確認して自室に戻った。


 テオの母は、テオの部屋の前で「あら、ここよね? 私ったら、どこの部屋をノックしてしまったのかしら?」と、怪訝けげんそうな顔を見せる。


「母さん、間違える時もあるよ。下の階だったんじゃない?」


 テオは心の中でびる。


「嫌だわー、ボケて来たのかしら?」

「何言ってるんだよー。ほら、入って」


 テオは室内を見て、戦慄せんりつが走った。


 朝食のワゴンが片付けられておらず、そのままの状態で置かれていた。


「あ、あれ? 下げておいてって電話しておいたのにな……」


 明らかに2人前の皿を、母に背中を向けて重ね合わせ、クロッシュで隠す。


 しかし、グラスは隠せなかった。あっさりと母に指摘される。


「あら、テオ。こんなに朝ご飯を食べていたの? 残しているじゃない。もったいない注文の仕方をしてー」

「ハハ……あー、英語が上手く伝わらなくて、たくさん来ちゃったんだよ」

「まあ、勉強しなくちゃねー。いつになったら、恋人と食べていたって報告が聞けるのかしらねー?」

「な! そ、そんな事、あるわけないじゃーん」

「そうよねー……お手洗い、借りるわよ」


 母がバスルームに消えると、テオは胸を撫で下ろしながらワゴンを廊下に出す。


(危なかった。母さんだから誤魔化せたけど父さんだったらアウトだよー……)


「テオ」


 後ろから呼ばれ、振り返ると母は仁王立ちで立っていた。


「これは、なあに?」


 歯ブラシを1本差し出す。


「え、何って僕が使った歯ブラシだよ?」

「じゃあ、こっちは?」


 もう1本の歯ブラシを差し出した。2本の歯ブラシを差し出して、母はテオをにらむ様に見る。


 テオは目を見開いて、全身の毛穴から汗が吹き出した。


(ト、ト、トラブルの! バレたー!)

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