第341話 ノエルの新しい力


 トラブルは家の近くのコンビニ前でタクシーを降りた。


 遅い昼食を買い、歩いて青い家に向かう。


 砂利道を下り青い家が見えると、2日空けただけなのに、ひどく懐かしく感じた。


 鍵を差し込み、少しドアを持ち上げながら回す。


 風に背中を押されながら家の中に入った。


(ただいま……)


 トラブルは2階に上がり、窓を開けて行く。


 ベッドカバーを外して寝転がり、テオにラインを打った。


『お疲れ様です。無事に帰国出来ました。ノエルの腕の経過は順調です。2週間後ギプスを外せます。ダテ・ジンの件はノエルの機転で解決しました。ゆっくり休んで下さい』


(そんなに業務連絡っぽいかなぁ。ま、いいか……送信っと)


 ベッドの上にスマホを投げ捨て、昼食を取る。


 洗濯機を回しながら、部屋の掃除をした。


 イム・ユンジュ医師に連絡を取り、診察時間までの間、バイクの洗車を始める。






 ノエルは病院を出て、母とオリンピック公園を散歩していた。


 いつもの様に母と腕を組み、母の歩調に合わせてゆっくりと歩く。


 平日の公園は閑散かんさんとしていて、ピンクの髪のノエルが人目を引く事はなかった。


 ノエルは、会う度に小さくなったと感じる母に視線を下ろす。


 自分の支援で経済的な負担はなくなったとはいえ、あの亭主関白な父にいまだにコキ使われていると思うと腹だたしい。


 ノエルに洗礼をほどこした神父は、ノエルの母を聖母マリアの様だと言った。確かに、母からは温かい感情しか感じた事がなかった。


 ノエルはテオとは違う、母からの癒しが他人の感情に敏感な自分の精神を守っていると気付いていた。


 安心出来る人とゆっくり歩き、心からリラックスする。


(この感じ、初めて感じる。人がいないからかなぁ……ん? 木の上⁈)


 ノエルが見上げると、公園の街路樹に小鳥が1羽とまっていた。


(うん、今日は暑いね。え、僕、今……)


 その時、ノエルと小鳥の間を一陣の風が吹き抜けた。小鳥は、その風に乗って空に舞い上がる。


(へー、空を飛べる君でも怖いって思うんだー……)


 足を止めて空を見上げるノエルを、ノエルの母は何も言わず、ただ待った。


(僕、人以外の感情もキャッチする様になっちゃった……でも、何だろ。君、うるさくないね……あーこんなに離れたら、もう、感じられないか。残念だな……)


 ノエルは、母を引いて歩き出す。


 周りを見ると、草花がおしゃべりをしている様に感じた。


(あはっ! セスの事、いろいろ言ったけど人の感情より穏やかで、心地良いな……うん、悪くない。セスの世界は複雑だけど、人しか分からない僕よりは癒しがたくさんある。だから、セスは優しいんだな……)


 ひときわ大きな街路樹が目に留まった。


(喉が渇いたの……ん? 木に『喉』はないよな。なんで……ああ、そうか。僕は渇きを感じたんだ。で、それを自分が理解出来る言葉に変換してしまった……セスなら黙って水をあげるね。自分の都合の良い様に解釈を変えたりしないで……皮肉や嫌味はいつも物事の核心を突いている。ソヨンさんの事だって、自分の気持ちを知るのが1番難しいなんて思ってもみなかったよ。自分の気持ち……)


 ふいに、青く塗られたキャンバスが頭に浮かんだ。


(なんだ……?)


 辺りを見回すと、若い女性が1人、空を見上げている。


 その女性の前には、何も描かれていない白いキャンバスが地面に置かれていた。


 女性は画材を持っていなかった。ただ、空を見上げている。


 ノエルも空を見上げてみた。


 すると、今度はピンクの雲が頭に浮かんだ。


 ノエルは驚いて女性に視線を戻した。すると、女性はノエルを見ていた。


(ピンク……僕の髪……あの人の見ている物が色と形で伝わって来る。こんなの、初めてだ……)


 ノエルは、女性に近づこうと足を向ける。


 一瞬、黒いモヤモヤとしたモノがノエルの頭に浮かび、女性はキャンバスを抱えて逃げて行った。


(見ている物じゃなくて、あの人の感情だ! 感情が色と形で!)


 ノエルは後を追おうとして、腕の重さで母を思い出した。母はバランスを失いそうになる。


「あ! ごめん、母さん。大丈夫だった?」


 ノエルは女性の走り去った方向を見るが、すでに姿は見えなかった。


「……母さん、お腹空いたね。何か食べに行こうか……」

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