第236話 霊安室から脱出


 非常階段を上がろうとすると、上から人の気配がした。


 トラブルはやむなく地下に下りた。


 地下1階は人気ひとけがなく、蛍光灯の明かりは所々しか点けられていなかった。


(病院の平面図は頭に入っている。たしか、霊安室が……あった)


 トラブルは薄暗い廊下を静かに走り、霊安室に入る。


(ここは半地下だから、寝台を搬出するドアが……開いていて……)


 しかし、外に出られるはずのドアは鍵が掛けられていた。部屋を見回しても窓はない。


(隣の遺体処置室にも出入り口があったな)


 霊安室を出ようとすると声が聞こえた。


 咄嗟とっさにドアの陰に隠れる。


「警備ですが、不審者は見ませんでしたか?」

「いいえ、見ていませんけど」


 トラブルはドアの隙間から、そっとうかがい見る。


 洗濯ワゴンを押す女性が遠ざかって行った。


 警備員の気配も消えた。


 自分の心臓の鼓動で体が揺れる。汗が吹き出して止まらない。


 静寂を破らないようにドアを閉め、隣の部屋に滑り込む。 


 霊安室よりも、さらに寒々とした遺体処置室の壁に、やはり、外に出られるドアがあった。


(鍵を掛け忘れています様に……)


 取手とってに手を掛け、ドアを押す。が、開かない。


 体重を掛けて押し引きしてもドアはビクともしなかった。


(どうしよう……)


「今、何か聞こえませんでした?」

「本当?」


 女性達の声が近づいて来る。


 トラブルはこわばる足に叱咤しったして、金属の処置台の後ろに身を隠した。


「そこ、霊安室よ。いやだー」

「誰もいないですね」

「当たり前よー、こんな所に誰がいるって言うのよー」


 女性達の声が遠ざかって行く。


 トラブルは、はぁーと、床に座り込んだ。


 壁に寄りかかり目をつぶる。


(これは、かなりマズイ……まったく、いい加減な仕事をしているクセに、戸締りは忘れないなんて。あと、出口はー……)


 ふと、視線の先に外の明かりが見えた。


 床の低い位置に、横長の扉が見える。


(そうか! 床の汚物を洗い流す為の小窓だ)


 トラブルは、その小窓に手を掛けて横に動かしてみる。


 長く使われていないのか、ギギッと音を立てながら、横にスライドして開いた。


 外の新鮮な空気が流れ込んで来る。


(よし……)


 半分開いた所で、床にいつくばって体をねじ込む。


 外の、遺体を搬出する為の通路に着地した。


 リュックも忘れずに引っ張り出す。


 名札をはずし、白衣をリュックに詰め込む。足早にスロープを上りながら、名札を植え込みに投げ捨てた。


 職員駐車場まで、焦る気持ちを抑えて歩く。


 バイクにまたがり、病院を後にした。






 医務室に戻ったトラブルは、まだ緊張が解けないでいた。


 ふーっと、深呼吸をする。すると、自分の体が匂うと気が付いた。


 遺体処置室の床の匂いがこびり付いている。


 トラブルは練習室のシャワーブースを借りる事にした。


 着替えを持ち、医務室に外出中の札を再び掛けて練習室に行く。


 誰もいない練習室のドアに鍵を掛け、手早く服を脱ぎシャワーを浴びた。


 体の泡を流しながら熱い湯を浴びて、やっと一息つく事が出来た。


(すごい、私、本当に病院に潜り込めた……)


 最後の脱出劇を思い出し、思わず顔がニヤける。


(テオにノエルのケア方法を伝えておかなくては……)


 ふと、ノエルの母が脳裏に浮かぶ。


 白髪混じりの髪、優しそうな顔、シワだらけの柔らかい手。


 小さな体をさらに小さくして、何度も頭を下げた姿……。


『息子を、どうぞよろしくお願い致します。お願い致します』


 トラブルは自分の右手を見る。


 ノエルの母の力強い感触が残っている。


『先生、お願い致します』


(でも、私は……)


 トラブルは小児科実習での光景を思い出した。


 幼い我が子を胸に抱き、医師にその命をたくす。


 小さき者、幼き者に母性を向けるのは当然だと思っていた。


(子が成長しても、母性はなくならないのか……)


 ノエルは自分の母を『みすぼらしい』と言った。


 しかし、トラブルにはさげすむ感情ではなく、むしろ誇らしげに聞こえた。


(みすぼらしい母を誇りに思っている……)


 トラブルは顔を上げ、シャワーを止める。

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