第386話 ありがたい


「なんで、トラブルの所に泊まるって僕に言わないんだよー」


 ノエルは小声でテオをにらみつける。


「だって、その……今日と知られるのが嫌だってトラブルが……」

「そんなの口裏を合わせてあげるのにー」

「そうなの⁈」

「当たり前だよー。からかったりしないよー。中坊じゃあるまいし」

「そっか、そうだよね。うん、ごめん」

「ワインを送るなんて嘘までいて。彼女とワインを飲んで、しばしの別れを惜しむなんて最高のシチュエーションじゃん?」

「そう思う?」

「うん、最高だよ。頑張ってね」

「ありがと。頑張る」

「彼女って?」


 テオの母がおかずを詰めたタッパーを持ちながら、キッチンから戻って聞いた。


「え、えーと、あの、その……」

「おばさん、僕の彼女の事です」


 ノエルが手を挙げた。


「あら、ノエルくん、彼女が出来たの? 芸能人? 一般の方?」

「……一般の方です」

「まあ、そうなのー。今度、紹介してちょうだい。その方のお友達で良い方いないかしら? テオに紹介してあげて」

「あ、はい。良い人がいれば……」

「でも、テオは、まだまだ子供だから女性に苦労させてしまうわね」


 テオの母は口を押さえて笑う。


「母さん! 僕は大人です」

「よく言うわよ。ほら、こぼしているわよ。テオには、まだ無理ね。ノエルくんは大人だから安心ね」

「母さん!」

「あー、ノエルくんみたいな息子だったら、母さん、安心出来るのになー」

「お母さーん!」


 ノエルは笑いながら2人のやり取りを聞いていた。


(本当、良い親子関係だなぁ。羨ましい……)


「僕、そろそろ行きます。御馳走でした。お父さんにもよろしくお伝え下さい」

「はい。会えなくて残念がるわ。忙しいと思うけど体に気を付けて、また、遊びに来てね」

「はい、お邪魔しました」


 ノエルは頭を下げる。


「見送って来るよ」


 テオはノエルと実家を出た。


 歩いて数分の場所のノエルの実家に向かう。道中、ノエルはトラブルに話を戻した。


「何時にトラブルの所に行くの?」

「決めてないよ。父さんとご飯してから、適当に行く」

「時間、言ってないの?」

「うーん。あんまりガツガツすると引かれちゃうかなって。少し、待たす位がトラブルが……その……」

「その気になってくれる?」

「う、うん。たぶん」

「今まで、散々お預けくらっていたからねー。ま、頑張ってよ」

「頑張るよー」


 ノエルの実家は小さな平屋の家だった。


 一度、ノエルが新しい住まいをプレゼントしようとした時、父から帰って来た言葉は『俺が建てた家が気に入らないのか』だった。そして『広いと、母さんの掃除が大変になるだろ』だった。


 ノエルは拳を握って、その言葉に耐えた。


 自分のデビューが決まってから母に離婚を提案した事もあった。自分が生活を支えるから父から逃れて楽になって欲しいと伝えた。しかし、母は『自分の父親をそんな風に思ってはいけない。悪い人ではない』と、言った。ノエルは母の言葉を信じる事は出来なかったが、母の人生なのだからと自分を納得させ、その言葉は2度と口にしなかった。


 呼び鈴を鳴らす。


 聞き慣れた声と足音がして、ノエルの母が顔を出した。


「おばさん! お久しぶりです!」


 テオは家の中に聞こえるように、わざと大きな声で挨拶をした。


「まあ、テオくん。本当に久しぶりね。さあ、上がって」


 ノエルの母は小さな体を横にして、テオを家にあげようとした。


 ノエルは玄関に父の靴を確認すると、母を止める。


「母さん、僕達すぐに帰らなくちゃならないから、ここでいいよ。お土産を届けに来たんだ。父さんと兄さんにも渡しておいて」

「こっちは僕からです」

「まあ、テオくん、ありがとうね。お母さんには会ったの?」

「はい、会って来ました。まわしなくて……さわしなく……なんだっけ?」

せわしなくて」

「そう! ノエル、それです! すみません」

「いいえ、体に気を付けて頑張ってね。ノエルと仲良くしてくれて、いつもありがとうね」

「いえ! こちらこそ、いつもお世話してもらっています!」

「母さん、これは大袈裟じゃないからね」


 ノエルは胸を張って笑顔で言った。しかし、母の返事はノエルの望んだモノではなかった。


「まあ、ノエル、ありがたいわね」

「え……う、うん。そうだね。あー……じゃあ、僕達、もう行くね。


 テオはノエルの笑顔が失なわれて行くのに気が付いた。


「おばさん、また、来ます。お元気で」


 テオは頭を下げる。


「はい、テオくんも忙しいでしょうけど体に気を付けて頑張ってね」

「ありがとうございます。失礼します」


 テオはノエルの母に再び頭を下げ、下を向くノエルの腕を引きながら、その場を去った。


 ノエルはトボトボと歩きながら考え込んでいた。


「ノエル? 急にどうしたの?」

「ううん、何でもないよ」

「ホームシック?」

「違うよー。その反対かな……」

「反対?」

「何でもないってばー。僕、タクシーを呼ぶから、ここでバイバイね」 

「本当に大丈夫?」

「大丈夫だよー」

「うん……じゃあ、明日」

「6時までに帰って来るんだよ。飛行機の時間があるんだからね」

「うん、分かったけど……じゃあね」

「じゃ」


 テオは寂しそうな幼馴染の背中を見送る。


 ノエルはその視線を感じながら歩き出した。


(はぁ……母さんの事になると冷静でいられない。他人の気持ちなら手に取る様に分かるのに……『ありがたい』か……素直にそう思えない僕は母さんにとっては、まだまだ、なんだろうなぁ……)


 テオと手を繋いで通った小学校までの道のりをトボトボと行く。


 ノエルは幼いテオと自分が仔犬の様に走り回る姿を回想した。


 時に泣き、時に怒り、時に慰め合いながら2人は幼児から児童になり、生徒に成長して行く。


(これは……僕から流れ出た感情を僕が見ているのか……? 走馬灯じゃないよね⁈ ……僕が本当にテオと兄弟だったら、こんな力は必要なかったのに。僕はどうして僕なんだろう……)


 歩くうちに、小学校に到着した。


 校庭は授業中なのか、しんと、静まりかえっている。


(あー、こんな所まで歩いちゃった。タクシーを呼ぼう)


 ノエルはタクシーを呼ぶ。


 正門前で待っていると、ふと、テオと2人で作った秘密基地を思い出した。


(まだ、あるかな……)


 ノエルは、脇道を入った路地にあるバラック小屋を目指す。


 子供の頃には充分に暮らせると思っていたトタン屋根の小屋は、穴だらけで、しかし、そこに小さく存在していた。


(あった……今にも倒れそうだけど……)


 ノエルは腰をかがめて、小屋をのぞいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る