第508話 妄想男に共感しろ


 トラブルは宿舎からの帰り道、バイクをゆっくりと走らせていた。


 テオの強引な行為は、バイクの振動で下半身に鈍い痛みを走らせる。


(濡れてないって分かんないのかな……テオだって気持ちいいとは思えないけど。痛た……)


 トラブルは、体の痛み以上に心の痛みを感じていた。


(テオの言葉から『永遠』と『ずっと』が消えた……そんなの信じてなかったけど、だけど……私が消してしまった……)


 キラキラと光り輝く太陽にかれ、自分は焼き尽くされても構わないと飛び込んだが、まさか、その輝きを失わせてしまう事になろうとは思ってもみなかった。


 そんな罪悪感がトラブルを襲う。


(ダメだ。このまま帰ったら自暴自棄になりそう……仕事をしよう)


 トラブルは会社にバイクを向かわせた。






 レコーディングスタジオで、ノエルはセスににらまれていた。


 テオが慌てて助けようとする。


「ノエル、お腹が空いているんじゃない? だから、声が出ないんだよ」

「メシは食ったはずだろう」


 セスは腕を組んでノエルに言った。


 ノエルは髪をかき上げる。


「うん、食べたんだけどね。塩辛くて……喉が脱水気味だよ」


 ノエルは水をガブ飲みする。


「ノエル、何を食べたの?」 

「よだれ鶏」

「え! なにそれ⁈」

「中国の料理なんだって。塩水で鶏肉を茹でてタレが掛けてあった」

「『よだれ』の意味は? 本当のよだれ?」

「まさかー。それも調べようと思ってたんだー」

塩麹しおこうじで茹でるんだ。考えただけでよだれが出るから『よだれ鶏』」


 セスは椅子に寄り掛かり、腕を組んでノエルをにらんだまま説明をする。


「なんだ、セス。知っている料理だったの」

「……お前、今日は歌えないのか?」

「あー、喉のせいじゃなくて、歌詞がさ、別れの歌じゃん? 感情移入が出来なくて……」


 セスはため息をいた。


「テオ、行けるか?」

「う、うん。でも、ノエルがそんな事言うなんて、何かあったの?」

「なんでもないよー」


 ノエルは髪をかき上げて誤魔化した。セスは、大きなため息を吐き出す。


「1人ずつやろう。全員でいると集中出来ない。テオ以外は出ろ」


 セスの指示で、テオを残してメンバー達はスタジオを出る。


 テオはブース内でマイクの前に立ち、ヘッドフォンを付けて、セスとプロデューサーの合図を待った。


 楽譜と歌詞を見ながら歌い上げていく。


 ミディアムスローテンポのその曲は、曲だけなら鼻歌まじりに花でも飾っている様なノリの良さだが、歌詞は、かなり後ろ向きの暗い男の恋愛事情だった。


《僕達はきっと上手く行かない》

《この恋の終わりにリアルな思い出はいらない》

《君の事を彼女だった人と呼ぶよ。一度挨拶しただけだけど》

《さようなら、僕を知らない僕の彼女》

《僕の中で君は自由になる》


「おー、テオ、良いじゃないか。君の声と、この救いのない歌詞が合っているね」


 いつも間にかセスの後ろに立っていた作曲家のパン・ムヒョンが拍手をする。


 テオはガラス越しに頭を下げた。


「結局、このままの歌詞で行く事になったのかい?」


 社内で唯一、セスが敬語で話す偉大な作曲家は微笑みながらセスの隣に座った。


「救いは必要ありません」

「しかしだねー、聞き手がツッコミを入れたくなるねー」

「存分に入れてもらいましょう」

「根暗のオタク男が、2次元の女の子を相手にしているサマが思い浮かぶね。君達の歌ではないと思うのだが?」

「男女の仲は妄想と勘違いから始まるという内容です」

「始まってないじゃないか」

「男の妄想で始まり、男の妄想で終わります」

「それは自慰行為と言うのではないのかね?」

「そうです。《リアルな思い出はいらない》と、言わせています」

「今時の若者は少子化へ邁進まいしんしているねー。一度、挨拶したら彼女だとは、世も末だ」

「妄想です」

「……君も妄想の彼女に恋をしているのだね?」

「していません」

「恋はしていなくても、妄想の彼女はいる?」

「……男なら一度は、まだ見ぬ相手を想像する事はあるでしょう」

「一般論に当てはまらない君が、一般論を語るとはねー。ところで、そろそろテオくんを解放してあげてはどうだね?」


 セスは「ああー……」と、ブース内から不安そうに見るテオを手招きして呼んだ。


「テオ、ノエルの仕上がり次第では、お前を録り直すかもしれないが、今のところOKだ」

「分かった。セス、あのね、ノエルは別れの歌って言ったけど僕には次の出会いの歌に思えるんだ。ほら、最後に『君は自由になる』って。でしょ?」


 セスは鼻で笑って答えなかった。


「ノエルを呼んで来い」

「あ、うん。分かった」


 テオがスタジオを出て行くと、パン・ムヒョンは肩を揺すってクスクスと笑う。


「相変わらず、テオくんは独特な解釈をするね。……君の中の君は、誰を自由にしているのかい?」

「歌詞の中の男に聞いているのですよね?」

「目の前にいる男に聞いているつもりだがねー」


 ノエルが「お疲れ様です」と、パン・ムヒョンに挨拶をしながら入って来た。


「ノエルくん、テオくんはこの歌を『次への出会い』と、とらえた様だよ。君の解釈を聞かせてもらうよ」

「はぁ……」


 ノエルはノリの悪い返事をしてブースに入った。


 セスは、今日、何度目かのため息をく。


 ブース内との音声をオフにして「今日は中止かもしれません」と、小さく言った。


「まあ、聴いてみよう」


 パン・ムヒョンはセスに視線でスタートの合図を送る。


 セスはノエルに声掛けずに音を出した。


 狭いレコーディングブース内に、ノエルの気怠けだるい声が響く。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る