第544話 名医


 5時間後、トラブルは手術室で自発呼吸が戻るのを確認され、人工呼吸器を外された。


 なぜ、5時間も掛かったかというと、左足の皮膚縫合を終わらせた山内医師が、足のエコー検査を始めたからだった。


 イム・ユンジュは山内医師の、その行為に舌を巻く。


(これが、日本医療のスタンダードなのか山内先生の判断なのか……深部静脈血栓は下肢の手術では1番厄介な合併症だからな。このタイミングで発見出来れば、すぐに治療に移れる。患者の生命予後は格段に上がる……見事だ)


 イム・ユンジュは設備だけではなく、良い医師のいる病院にトラブルを運んでくれたと伊達だてに感謝を伝えた。


 伊達だては、突然、何を言い出すのかと驚くが、その感謝は自分の先輩だった人に伝えると返す。


「最高の先生が引き受けてくれたから安心してと、連絡をくれました。とても……頑張ってくれました」

「そうでしたか。良い先輩ですね」


 伊達だては「はい」と、答えたものの、自分は目をかけてくれた先輩から逃げた身で、断られてもおかしくないはずなのに、恥を忍んだ頼みに医師の使命を優先させてくれた立派な人を、当時はさぞかしガッカリさせたのだろうと落ち込む。


 あの時は、悩んだ結果だと親を説得して退学届を出したが、自分が努力したのは受験までで、それも塾の先生にこれをやれ、あれをやれと言われるままに従っていただけだった。


 好きなK-POPアイドルに会えるかもしれないと入った会社でトラブルと出会い、恋に敗れ、そこでもまた、仕事を教えてくれた歩美あゆみ先輩に言い訳をしながら逃げ出してしまった。


 自分は何が向いているのか分からない。しかし、一つだけ言える事は、半端な自分が役に立つ事は、皆無であり、すべて周りが取り繕ってくれているだけという事実。


 そんな、自分の不甲斐なさを恥じる伊達だての気持ちを、イム・ユンジュは手に取るように理解した。


 人から見れば順風満帆な人生を歩んでいても、挫折を味わった経験はある。


 そして、そこからい上がれない上司や患者、その家族を嫌というほど見て来た。


 イム・ユンジュは、トラブルの為に動いてくれた日本の若者に、その様な人生を歩んで欲しくはないと思った。


 トラブルの命を助ける為に奔走している人々の一端になっている事を誇りに思って良いと伝えた。


「誇り……」

「あなたの今までは、今日の日の為にあった。今日から新しい一歩を踏み出せばいい」

「新しい一歩……」

「彼女がリハビリを諦めそうになった時に、自分はこんな道を歩き始めていると言えれば、彼女の励みになる」

「トラブルの励みに……」

「そうです。あなたなら出来ます」

「あ、ありがとうございます!」


 伊達だては姿勢を正して、頭を下げる。


 はるばる韓国からやって来た医師は、その素直な反応に(この子は大丈夫だ)と、微笑みで返した。


(トラブルの周りには良い人ばかりがいる。僕もトラブルの周りのいる良い人と思われたい)


 伊達だては顎を引いて拳を握る。


 モニターの中のトラブルは、ストレッチャーに移動されていた。


 2人は廊下を出て、手術室のドアが見える位置に立つ。


 自動ドアが開き、看護師と医師に囲まれたトラブルが出て来た。


 そのまま、2人の前を止まらずに通り過ぎる。


 2人は人の隙間からトラブルを見るしか出来なかったが、それでも生きて手術室を出られた事に胸を撫で下ろした。


 トラブルは集中治療室ICUに運び込まれ、姿が見えなくなった。


 山内医師が手を拭きながら出て来た。


 イム・ユンジュはトラブルの容体が安定していると分かっているので、足のエコー検査について質問をした。


「ああ。あれは、自分はやる事にしているだけで、スタンダードではありません。深部静脈血栓症の症状が出る前と後で治療した患者の予後を調べているのですよ。来年の学会で発表するつもりです」

「どう考えても予後は良好になりますよね?」

「そうなのですが、根拠エビデンスを証明しないと」

「必ず、スタンダードになりますよ。先生の報告を楽しみにしています」

「ありがとうございます」


 山内医師は丁寧に下げた頭を上げながら、韓国から来た医師を仰ぎ見る。


「失礼ですが、外科のイム・ユンジュ先生といえば、数年前に創部の縫合に美容形成を取り入れた先生ではありませんか? もし、違っていたら、すみません」

「いえ。はい、それは私です」

「やはり! 聞き覚えのあるお名前だと思っていたのですよー! 先生の論文は日本でも物議をかもしましてね。今では術後は形成外科の技術で縫うのが常識になっていますよ!」

「我が国でも、やっとそうなりましたよ。身体からだの傷は残らないのが理想ですから」

「先生は、各科の得意な分野を集めるチーム医療の元祖です!」

「いや、それは大袈裟です」


 イム・ユンジュは(それで医局を追われたとは言いにくいな)と、黙っている事にした。


 伊達だては2人の会話を聞きながら、医師になっても勉強と研究は一生続くのかと、よく考えれば当たり前の事に驚く。


 そして、自分は努力が足りなかったのではなく、努力をしなかったのだと気付かされた。


(僕も、誰にも負けないモノを身に付けたい……)






 しばらく山内医師と雑談をしていると、集中治療室の看護師が窓越しに面会可能だと伝えに来た。


「いえ。イム・ユンジュ先生、マスクとエプロンを着けて頂ければ、どうぞ中にお入り下さい」

「しかし、我々は空港から直接来ましたので、あまり清潔な状態とは言えません」


 イム・ユンジュは感染症を警戒して断る。


 伊達だては、すぐにでもトラブルの手を握りたかったが、まるで自分も同意見だと言わんばかりにうなずいて見せた。


「では、こちらへどうぞ」


 案内された部屋の前で窓をのぞくと、酸素マスクを着けた、痩せて真っ黒に日焼けしたトラブルが横たわっていた。


 伊達だては窓に両手をつき、初めて好きになった女性との再会がこんな形になるとはと、鎮痛な面持ちで見つめた。


 イム・ユンジュは(やはり、特別な感情があるのか……)と、思うが心にとどめておく事にした。

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