第543話 脱落者とエリート


 イム・ユンジュ医師は、自分が手術に関われないのは残念に思ったが、モニター上でトラブルが急変すれば手術室に駆け付けるつもりでいた。


 飛行機の中から頭の中であらゆる場面を想定し、オペのイメージトレーニングはすでに済んでいる。


 真っ暗なモニターをにらむ様に見続ける。


 モニタールームは豪華な造りだった。応接セットにダイニングセット、簡易キッチンの横には、飲み物の自販機と並んで、カップラーメンやハンバーガーの自販機がある。


 窓がないのは、ここが1階で景観が望めないからなのか、要人や有名人の家族が入る事を想定しているのか分からないが、長時間の手術を待つ場所だとしても快適過ぎると違和感を持つ。


「うわ、レストランのメニューがここで食べられるんだ! 30分程度でお届けしますですって!」


 伊達だては通訳の役目をすっかり忘れて、日本語で叫ぶ。


 イム・ユンジュは思わず微笑んで「すごいですね」と、日本語で返した。


 伊達だては恥ずかしくなる。


「日本語、お上手ですね」

「医師免許を取った後に日本の医学部に入り直しました。勉強がしたくて」

「じゃあ、12年も大学に⁈」

「いえ、日本は留学生として3年間、勉強をさせてもらいました。伊達だてさんは看護師さんですか?」

「あ、いえ……僕はー、今は無職です。以前、トラブルが日本公演に来日した際に、コーディネーターとして同行しました。そちらの代表さんとは、ご挨拶程度ですけど」

「そうですか……通訳を頼まれたのですか?」

「はい。僕の知り合いが、ここの病院の院長を説得してくれてトラブル……さんを、受け入れてくれました」

「あなたはドクターですか?」

「あ、いえ。退学しました……小児科の実習で手術を嫌がる子供を押さえられなくて、叱られて……」


 伊達だては鼻の頭をポリポリとかく。


「すごく泣かれてしまって、それで‥…」

「そうでしたか」


 イム・ユンジュは笑顔を取り繕いながら、自分が指導医だったら尻を蹴り上げていると思う。


 かつての後輩、ヤン・ムンセも何かと尻込みをする学生だった。しかし、投げ出したり、ましてや逃げ出す事など決してしなかった。


 国家試験に現役で合格してからは、麻酔が効いて意識のない患者には、素晴らしい技術を披露するのだが、少しでも痛がると謝り、それ以上、治療を進められなかった。


 イム・ユンジュは痛みを与えたのだから謝るのは正解だが、そこで結果を出せば、次にその患者は信頼して患部を見せてくれる様になるとさとした。


 ヤン・ムンセは何度も患者に怒鳴られ、ビビりながらも確実に結果を残して行った。そして、そのうち、ベテラン看護師が「この先生は見かけによらず腕が良いので大丈夫」と、フォローを入れてくれる様になる。


 患者の痛みに寄り添う事の出来る、優しくて優秀な医師は出世街道まっしぐらかと思われたが、突然、何の前触れもなく退職した。


「もっと、精神力を鍛えて来ます」


 そう言って国境のない医師団に参加し、世界で活躍し始めた彼の事を、自分も周りの仲間達も若気のいたりと呆れたが、今、思えば羨ましかったのだろう。

 

 だから、ミン・ジウの件で医局を追われた時、晴れ晴れとした気分だったのだ。


(せっかく医師になったのだから、やりたい医療をやろう)


 次期外科部長の座をあっさりと降り、地域に密着した医療を始めてから、人は人を助ける事で人に生かされていると気付いた。


 それを教えてくれたヤン・ムンセを人として尊敬している。そして、ヤンが繋いだ命を必ず救ってみせると改めて思う。


(ミン・ジウ、君にも気付いて欲しい。君を救う為に、何十、何百の人々が力を尽くしている。君は人に生かされているんだ。だから、生きて、生き抜いて、その恩を返すんだ……)


 真っ暗だったモニター画面が点き、手術室が映し出された。


 中央の手術台の上で青い布に覆われている人物がトラブルだろう。


 画面は4分割され、手術室全体・心電計と血圧・トラブルの顔・そして、恐らく術野じゅつやになる青い布が映っていた。

 

 イム・ユンジュは心電図の波形と血圧を見る。


(収縮期血圧80……脈32……低いな。しかし波形は正常だ。顔色が悪い……当然か)


 トラブルの腕に繋がれた点滴は透明で、輸血はまだ始められていない様だった。


(すでに終わらせたのか? 少しでも貧血を改善してからオペだと思うが……)


 手術室に医師達の数が増え、トラブルの右腕を消毒し始めた。


 イム・ユンジュが「?」と、見ていると、肘からカテーテルが差し込まれ、モニターに心臓の透視映像が映る。


(心臓カテーテル! なるほど、あまりの低心機能に輸血をして血液を濃くすれば冠動脈が詰まる可能性を考えたのか……もし狭窄があれば拡張も同時に出来る。さすがだ……)


 イム・ユンジュが見る限り、トラブルの心臓の動きは弱々しいだけで、それ以外の問題は見当たらなかった。オペ室の医師達も同じ判断をしたのだろう。輸血が開始された。


 画面の中の山内医師がカテーテルを操作していた医師に頭を下げている。


 本格的な麻酔を開始する為に、トラブルの喉に管を入れ、人工呼吸器に繋がれた。


 左足の人工膝関節挿入術が始まった。


 術野じゅつやに注目するイム・ユンジュと違い、伊達だてはトラブルの顔を見ていた。


「痩せた……」


 伊達だてつぶやきを聞き逃さなかったイム・ユンジュは、この若者はコーディネーターとしてだけではなく、個人的にも交流があったのかもと思う。


 しかし、今は関係のない話だと頭を振る。


 ふと、テオの顔が浮かんだ。


(テオさんは、知っているのだろうか……恋人なのだから知っていて当たり前か。駆けつける事が出来なくて、もどかしいだろうな……)


 イム・ユンジュは代表に電話をした。手術が開始されたと伝える。


 テオにも伝わる事を期待して、思いのほか状態は安定していると言い、それ以外の余計な事は言わずに電話を切った。


「あの、先生、手術、時間……長い?」


 伊達だては手術時間を聞く。


 イム・ユンジュは、たどたどしい韓国語に微笑みを返し「膝の人工関節を入れるだけなら2、3時間ですよ」と、韓国語で返す。


「だけ? 他にも、手術、ある?」


 その質問にイム・ユンジュは、画面の隅に映るレントゲンの画像を指差して、可能な限り日本語で説明をした。


「これは左足です。脛骨けいこつも潰れているのが分かりますか? 骨セメントで脛骨けいこつを作り、その後、人工関節を固定します。安定したら膝下の骨も作る必要があります。方法はいろいろありますが……時期をみて右足の手術もする事になると思います」


 伊達だては、かつての解剖学の教科書を頭の中で巡らせるが、すねの骨は2本だったはず程度しか思い出せなかった。


 足の手術を終わらせて松葉杖をつくトラブルを支えながら、一緒にリハビリを頑張ろうなどと浮かれたよこしまな考えは吹き飛び、モニター画面に視線を戻す。

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