第443話 当たり前はない


 トラブルは、そろそろテオを寝かせなくてはと思っていた。


 パリまでの約12時間のフライトが待っている。


 そして、30日間に及ぶ公演と移動の繰り返し。さらに、アメリカ以上のスケジュールが詰め込まれていた。


 当然、全員に伝えられているがテオはいつもの様にゼノ任せで、まったく把握しようとしていなかった。

 

 2人の自撮りをいそしむテオに痺れを切らしたトラブルは、テオをベッドに押し倒す。


「なあに? したくなっちゃった?」


違います。寝る時間です。


「まだ、イイよ。眠たくないし、飛行機で寝るから」


いけません。睡眠不足は肉体的にも精神的にもダメージを与えます。集中力が落ちればケガの原因にもなり得ます。マッサージをしてあげます。


「トラブルは眠たいの?」


はい。すでに私の就寝時間は過ぎています。


「そっか……じゃあ、子守唄を歌ってあげる。トラブルの寝顔が見たい」


(私はテオの寝顔が見たいですが……)


 トラブルはテオが寝る気になったので、従う事にした。


 2人で布団をかぶり、テオの腕枕に頭を乗せる。


「トラブル、足が冷えているよ。僕の足の間に入れな」


 テオの足は暖かかった。


 テオはトラブルの背中をポンポンと優しく叩きながら、ささやく様に歌い出す。


 韓国の子供なら誰でも1度は母親の声で耳にした事のある子守唄。しかし、トラブルにとっては、テオが教えてくれた子守唄だった。


 トラブルは目をつぶる。


 甘い声にまみれて、トラブルは体が重くなったと感じ、そのまま吸い込まれる様に眠りに付いた。


 テオはトラブルが眠付いたと気付いても、歌を止めなかった。


(悪い夢を見ない様に、朝まで歌っててあげる……)


 高い天井にテオの低い声が響く。


 歌いながら、腕の中で眠る愛する人の額を撫でる。

 

 生まれた時から当たり前の様に両親に愛されて育ったテオには、トラブルの様な子供の苦労は想像するしかなかった。


 学校の授業やテレビの情報で、食料難や恵まれない子供の存在は知っていたし、募金活動や寄付にも参加した事はあるが、その子達が大人になってからどの様な道を歩んでいるのか、トラブルと出会うまでは考えた事もなかった。


 ゼノに頼み、会社の慈善事業に参加させてもらうと、子供の支援には資金が集まりやすいが、義務教育を終わらせた高校生や大学生、そして何かと身元保証人が必要な社会人には、まったくと言っていいほど支援の手が伸びていないと痛感した。


 その事をトラブルに話した時、トラブルは自分は戸籍があるだけでも恵まれた方だと、寂しく笑った。


 ゼノは、まずは命を、そして最低限の教育が最優先と言った。


 テオは、では自分はその後を考えると、数少ない、成人を支援している団体に資金援助を申し出た。


 ゼノに、慈善事業はキレイ事だけではないので覚悟をする様にと言われた。


 その時は意味が分からなかったが、支援金を持ち逃げする職員や、家賃補助のための金でギャンブルやアルコール依存症になる被支援者の報告を受ける度に、心が折れそうになった。


 そして、そうした人々と目の前の愛する人との違いは何だろうと考えた。しかし、テオには人の心の弱さや、目には見えない軽度の発達障害などは理解出来なかった。


 テオは、恋人の気持ちの強さに改めて頭の下がる思いがした。


 逆境に打ち勝つために誰の手も借りず、1人で資金を貯めて大学で資格を取り、その後、障害を抱えても、自立している愛する人。


 そんな恋人を腕の中に抱き、愛していると言ってもらえる喜びを、誇りに感じていた。


(トラブル、母さんや父さんが僕にしてくれた事をトラブルにしてあげるからね。その寝顔を守ってあげる。ずっと、永遠があるって教えてあげるからね……)


 テオも、深い幸せな眠りに付いた。






 トラブルは久しぶりに悪夢を見なかったと、爽やかな朝を迎えた。


 隣には、今からヨーロッパ全土に黄色い歓声を轟かせるスーパーアイドルが、よだれを垂らして寝ている。


 トラブルはテオの額に掛かる髪を指でけた。


(いい子……)


 テオの額にキスをした。


 しばらく寝顔を見ていると、テオは薄めを開けて笑顔を向けた。


「おはよ」


 そう言って、また目を閉じる。


 テオはトラブルを抱き寄せて、足を絡ませた。太ももに硬いモノが当たる。


(ん? これはー、朝……だから?)


 テオは目をつぶったまま、を押し付けて来る。


 テオの腰の動きが怪しくなり、トラブルは逃げる様に背中を向けた。


 テオは、その背中を捕まえて引き寄せ、トラブルを背後からギュッと抱きしめた。


 トラブルの後頭部にテオの鼻息が荒く聞こえる。


(ウソでしょ⁈ 昨日、2回もしたのに⁈)


 後ろから首筋にテオのキスを受ける。


「大好きだよ。すごく大好き」


 トラブルの細い背中が汗ばみ、小さな傷跡が朝日を受けて見え隠れする。背後から回したテオの手が、永遠とも思える甘い時間を恋人に与えた。


 夏の終わりの乾燥した朝に、青い家だけが湿気を帯びた空気を抱える。

 

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