第105話 2人の医師


 健康診断の前日、すべての準備を終わらせたトラブルはユミちゃんといつもの勉強会を行っていた。


 すると、受付からメールで来客があると伝えられる。


 ユミちゃんに、ちょっと行って来ますと、トラブルはロビーへ向かった。


 勉強に飽きて来ていたユミちゃんは、こっそりと後をつける。





 トラブルが吹き抜けのロビー2階から下を見ると、知った顔と知らない顔が立っていた。


 階段を下りると知った顔が手を挙げて挨拶をする。


「やあ、ミン・ジウ。体調はどうだい?」


 笑顔を向ける男性にトラブルは無表情で手話で返事を返す。


イム・ユンジュ先生、どうしたのですか?


「こちらは医師のヤン・ムンセさん。健診の手伝いに彼を使ってくれ」


……説明して下さい。


「うちに出入りしている検査センターの担当者が、ここの健診の手伝いにはどんな看護師が良いのか聞いて来たんだ。だから、私が手配して彼をバイトで雇ってもらう事にした。ミン・ジウの助手は医師しか勤められないと説得をしてね」


……仕事内容は看護師業務ですよ。


「はい、承知しています。イム・ユンジュ先生の右腕になる為の修行だと思って頑張ります」


 ヤン・ムンセ医師が笑顔で言った。 


 トラブルは眉毛を上げる。


手話が読めるのですか?


「はい、アメリカ手話も出来ます。国境のない医師団に登録していますが今はいているのでバイトはありがたいです。ミン・ジウさんは、とても優秀とお聞きしましたので楽しみにして来ました」


 トラブルは、この若い医師を観察した。


(医師免許取りたてといった所か。手話が出来るのはありがたいが、女性看護師を希望したのに……)


「もう少し、愛想良く出来ないのか?」


 イム・ユンジュの言葉を無視してトラブルは早い手話で質問する。


採血は出来ますか? 外来診察の経験は? 診療情報提供書は書けますか? 白衣とグローブ《手袋》のサイズは? 4週間出勤出来ますか? 休みの希望は? 通勤手段は?


「はい、採血は出来ます。外来診察の経験は充分とは言えませんがあります。診療情報提供書も書けます。白衣はLLで、グローブは7.5で。4週間出られます。休みの希望はありません。地下鉄で通います」


 トラブルは、ふーん、バカではなさそうだと、腕を組む。


「採用試験は終わりましたかー? まったく、よろしくお願いしますくらい言えないものですかねー」


 イム・ユンジュも腕を組み、そして「そろそろ、仕事場に案内して下さい」と、言う。


 トラブルは無表情のまま、こっちと顎を振って階段を昇った。


 階段の上からのぞき見ていたユミちゃんは医務室へ逃げる。慌てて散らばった教科書を片付けた。


 トラブルはユミちゃんに2人を紹介した。


「始めまして。医師のイム・ユンジュと申します。こちらは後輩のヤン・ムンセです」

「こんにちは、オ・ユミです。あ、私、ヘアメイクを担当していまして、その関係でトラブルに皮膚科を教えてもらっています。ユミちゃんと呼んでください」

「ユミちゃん? 可愛いあなたにぴったりの愛称ですね」


 ユミちゃんはイム・ユンジュのお世辞に、両手を頰に付け「それほどでもー」と、まんざらでもない様子を見せる。


 トラブルはそんなユミちゃんを見て失笑した。


「トラブルとは、誰の事ですか?」


 ヤン・ムンセは首を傾げる。


「ああ、ミン・ジウの愛称だよ。先日亡くなった写真家のパク・ユンホ氏が付けた、あだ名だ」

「え! あの、有名なパク・ユンホですか? 先輩が主治医をしてたパク・ユンホ?」

「そう。彼女が看取みとったんだよ」

「ええ! ご家族ですか?」

「彼女はパク・ユンホ氏の専属看護師で、次々とトラブルを起こすからパク・ユンホ氏にトラブルと呼ばれていたんだ。まさか、転職してもそう呼ばれているとは。何をやらかしたんだい?」


 トラブルはユミちゃんと机の上を片付けながら、イム・ユンジュを無視する。


 ユミちゃんが気を使い「パク先生がそう呼んでいたから、皆んな呼ぶようになっただけでトラブルはトラブルを起こしてないです」と、擁護した。


 イム・ユンジュは目を細めて優しい笑顔で言う。


「可愛いくて優しい友達が出来たようですね」


「いや〜ん」と、ユミちゃんは体をクネらす。


 プッと、吹き出しながらトラブルは鞄を渡した。


「ありがと。先生方、失礼しまーす」


 ユミちゃんは手を振り医務室を出て行った。


「さて、ヤン先生に明日からの動きを教えて下さい」


 イム・ユンジュの言葉にトラブルは健診の日程と各部署へ配布した説明書きを見せる。


 ヤン・ムンセは素早く目を通した。


「結構、余裕を持って組んであるんですね」


一人でやるつもりだったので。あと、昨年初めて再検査になった2人のカルテを見て下さい。


 トラブルはイム・ユンジュとヤン・ムンセに、それぞれ1冊ずつカルテを渡す。


 2人はカルテに目を通し「データはこれだけ?」と、予想通り聞いて来た。


はい、これだけです。委託していたソウル中央病院にすべてのデータ開示は拒否されました。再受診しろの一点張りで。


「どこも患者の確保に躍起やっきだからな。あそこに知り合いいたかなー……」


「だから、この2人だけ部署が違うけれど初日に予定しているのですね?」と、ヤン・ムンセが言う。


 はいと、トラブル。


「では、この数名は? この方達も部署は様々ですが、初日に組まれていますが」


 トラブルは心の中で、よく気が付きましたと、思う。


この方達は毎年、要再検査の方です。再検査を受けているか本人に確認中ですが、返答がないので恐らく放置していると思われます。


 トラブルはカルテ棚から該当者のカルテを取り出しヤン・ムンセに渡した。


 イム・ユンジュがカルテ棚を覗き「これ全部に目を通したのか⁉︎」と、驚く。


はい、もちろん。


「イ・ヘギョンさんの後は大変だったろう。彼女、知識と技術は優秀だが書類仕事は苦手だったからなー」


ご理解頂き感謝します。


「データ化してないのか?」


進めていますが、この医務室が出来て1ヶ月程なので、まだまだです。


 トラブルはパソコン下の段ボール箱を指差す。


「はぁー。今回の健診結果も入力が追いつかないな」


いえ、結果はデータでもらえるようにしたので問題ありません。


「相変わらず、その辺の抜かりはないわけだ」


お褒めの言葉と受け取ります。


 カルテを見ていたヤン・ムンセが「この方が気になりますが……」と、カルテをイム・ユンジュに渡す。


「うーむ。ヤン先生は何が気になった?」

「肝機能が徐々に上がってきています。ビリルビン値も常に1以上あり、体重と身長を見ると明らかに肥満です。肝機能障害を起こしている可能性があり緊急性が高いと感じます。エコーの結果は分かりませんが……」

「んー? では、質問です。この看護師は数ヶ月前にカルテを見て、この患者……じゃなくて、この職員は健診の初日検査で良いと判断した訳ですよ。なぜだと思う?」

「えーと、それは……緊急性を見落とし、毎年再検査のグループに入れれば良いと思ったから?」


 トラブルは呆れた顔でヤン医師を見る。


 イム・ユンジュは苦笑いを浮かべた。


「昨年調べていないB型・C型肝炎ウイルス検査を、この職員に追加しているだろ? という事は、看護師はこのデータを分析して緊急性の有無を判断する情報を得て、健診まで待てると判断したんだ。まずデータの分析は、肝機能を示す数値のうちASTだけが高く、r-GOTも高い。身長・体重を見ると一見肥満だが中性脂肪は正常。男性。40代でまだ若い。これは、肝機能障害よりも心筋梗塞が疑われ、アルコール性の可能性が大。そして、身体は大きいが肥満ではないと考えられる。緊急性がないと判断した最大の理由は、カルテ以外の情報を看護師が得たからで、それは、この職員をたからだと推察される。ミン・ジウ、最終的に緊急性がないと判断した理由を説明して」


 トラブルは素早く答えた。


この職員は、元ラグビー選手で筋肉質です。肥満はありません。黄疸おうだんは出てなく、心筋梗塞の既往きおうもありません。アルコールを好み、昨年の健診時も深酒をした後の採血でした。今年は前日は飲酒しないように伝えてあります。ウイルス検査は入職してから一度も行っていないので慢性肝炎の可能性を除外する為に入れました。


「ヤン先生、分かったかい? データの分析で読み取る事と患者の診察で読み取る事の両方重要で、あとは自分が知らない情報を誰か持っていないか聞く事。で、指示を出す前に、これで正しいかもう一度確認をする事。その為に看護師を利用する事」


 利用?と、顔を向ける。


「いや、頼る事」

「はい、分かりました。勉強不足で申し訳ありません」


 ヤン・ムンセは素直に頭を下げた。


 トラブルは、では社内を案内しますと、2人を連れて医務室を出た。

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