第112話 ソヨンの事情


 トラブルは両手一杯の買い物袋を下げて医務室に戻ってきた。


診察台に荷物を広げ、備品リストに書き足して行く。次に外用薬を薬品リストに使用期限と共に書き足す。これで、大抵の怪我には対応出来る。


 よしと、トラブルはメイク室に向かった。


そっとメイク室のドアを開けるとすっかり掃除が終わり、メイクスタッフ達は明日のスケジュール確認と打ち合わせを行っていた。


 廊下でしばらく待っていると、帰り支度をしたメイクさん達が「お疲れ様でしたー」と、口々に言いながらエレベーターや階段で下りて行く。


ソヨンが出て来た。


 トラブルはソヨンの腕をつかみ、エレベーターホールで話を聞くと手話をした。


「あの、私も手話で話していいですか?」


 人目を気にするソヨンを気遣い、移動するかとトラブルは聞くが「いえ、手話でならここで大丈夫です」と、ソヨンは手話で話し始める。


弟はトラブルの言う通り糖尿病性網膜症と診断されました。黄斑浮腫おうはんふしゅもあるそうです。少しずつ視力が落ちて来ています。聾唖者ろうあしゃで視力まで失うのかと落ち込み方がひどくて、それで、自暴自棄になってインスリンも食事療法もやめてしまって……。イム・ユンジュ先生に新しい治療法を教えてもらったので弟に話してみます。抗VEGF薬を投与する方法と言っていました。トラブルは知っていますか?


 トラブルはうなずいて手話で返事をする。


ソヨン、その治療もヘモグロビンA1c(えーわんしー)を正常にしておかなくては効果的に働きません。インスリンと食事療法は必須です。


はい、分かっています。今まで頑張って来た弟です。新しい治療法があると知れば、きっと希望を取り戻してくれます。でも……


でも?


イム・ユンジュ先生に視力のある内に点字の勉強を始めておきなさいと言われました。治療に100%はないと……再発も視野に入れておきなさいと…… 。


そうですか。


私は弟に、なんと言えばいいのでしょう。ずっと頑張って来た母には? …… 以前、弟に、自分はいない方がいいか? と、聞かれた事があります。そんな事、考えた事も言った事もないのに弟は自分がいない方が母ちゃんと姉ちゃんは助かるんじゃないかと聞いて来ました。その時は笑ってごまかしましたが、弟がいなければ、私は幼い時に病院から帰ってくる母と弟を待って1人で留守番しなくてもよかったし、友達を家に呼べたかもしれない。普通に大学に入って学生生活を楽しんで、映画を見たりデートをしていたかもしれない。恋人に家族を紹介したり…… 。そんな考えが頭をよぎりました。


 ソヨンは鼻をすするる。


今、自暴自棄に陥っている弟を見ていると、本人がやる気を失っているのに何で私が頑張る必要があるのか、分からなくなります。母も精神的に追い詰められているのに無理に笑顔を作っています。とても強い人だと思います。でも、時々、私に“ 健常者なんだから” と言ってきます。今度は点字の勉強をしなくてはなりません。私はいつまで頑張ればいいのですか? 弟が死ぬまでですか? 私は弟が死ぬのを待っているのでしょうか? もし、また弟に同じ質問をされたら私は……


「私は『はい』と答えてしまうかもしれません。もう、頑張る自信がない……」


 ソヨンは声に出して絞り出すように言い、肩を震わせて大粒の涙を流す。


 トラブルはその肩を抱きソヨンの呼吸が落ち着くのを待った。


 鳴咽おえつが静まる。


 トラブルはソヨンの顔をのぞき込み、手話をした。


私は3人の母親から『いなければ良かったのに』と言われて来ました。正確に言うと、生後すぐに私を捨てた母と合わせて4人ですね。4人の母親は『いなくなれ』と、言葉と態度で私を責めました。私は生みの母を恨みました。殺しておいてくれれば、こんな苦労はしなくて済んだのにと。大人になって少し世間の仕組みが分かるようになると、生みの母をさらに恨みました。だって、私の為に殺人者になる事も拒否したって事ですよね? 別に死んでもいいし、生きていても関係ないって意思表示ですよ。


「トラブル…… 」


今度、弟さんが同じ質問をして来たら、私の代わりに引っ叩いて下さい。私は弟さんが羨ましい。弟さんの環境を恵まれていると思う人は沢山います。甘えるなと怒って下さい。そして、弟さんのおかげで私と手話で会話出来ていると感謝も伝えて下さい。点字を覚えた方が良いのは弟さんで、ソヨンじゃない。経済的な支援を止めるわけにはいかないでしょうが、たまには1人で映画を見に行ったって良いのです。恋人を探す事の何が悪いんです? 健常者と障害者の境目なんて実は曖昧なものです。自分の心次第です。


 ソヨンは涙を拭い取る。


「うん、そう。そうですよね。弟は大学で支援を受けながら授業を受けているのだから、もし、目が見えなくなっても別の支援を受ければ通学は可能だし、私も弟も恋人を作ってもいいんですよね」


その為には血液データを安定させる事。


「そうですよ。今、弟がやらなくてはならない事を思い出させます。グズグズ言っていたら引っ叩いてやります!」


 トラブルは笑う。


「ありがとう、トラブル。私はトラブルの生みのお母さんに感謝します。トラブルを信じて手放してくれて良かった。出会えて良かった」


 ソヨンはトラブルにギュッとハグをして笑顔で帰って行った。


 その背中を見送るトラブルは頭を強く叩かれたような錯覚を覚えた。


(私を信じて手放した? 捨てたのではなく? そんな考え方、した事なかった…… )


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