第8話 トラブルの始まり


 トラブルと新人は作業を進めていた。


 今日は新人の口数が少なく順調に作業が進んで行く。


「お疲れ様でしたー」と、遠くでスタッフの声が聞こえ、徐々に人の気配が消えて行っていた。


 夜9時。


 社内の明かりは落とされ、暗い廊下にメイク室の明かりだけが四角い影を作る。


 最後の壁紙を貼り終え、トラブルは手早く片付けを始めた。


 床のゴミを拾う為に這いつくばっていると背後に不穏な気配を感じた。とっさに立ち上がろうとするが、1秒、遅かった。


 新人が背中に抱きつき、そのまま前へ押し倒される。


 片手で口を塞がれ、片胸をわしづかみにされて激痛が走る。


 耳の後ろに新人の荒い鼻息を感じた。


 トラブルはもがきながら左肘で新人を力いっぱい小突こづいた。


「ぐっ」という声と共に腕がゆるみ、トラブルは素早く立ち上がる。


 お互い、肩で呼吸をしながら対峙たいじした。


「口を塞ぐ必要はなかったな……」


 新人は目を血走らせて真正面から迫ってくる。トラブルは脇からかわして逃げようとするが、すぐに強い力で腕をつかまれた。


 身長差20センチ。あがらうが敵うわけもなく、窓に叩きつけられる。


 ブラインドがガシャーンと派手な音を立てた。





「ねぇ、なにか聞こえなかった?」


 末っ子のジョンが振り向いた。


 暗い廊下の先のエレベーターに乗り込もうとしていたメンバー達は顔を見合わせる。


「メイク室の電気が点いてるね」

「まだ、作業してるんだ」


 メンバー達とマネージャーは誰ともなくメイク室へ向かう。


 突然、メイク室から新人が飛び出して来た。


「やめろ! 俺が悪かったから!」


 新人はメイク室の明かりに向かって叫び、走り去って行った。


「?」


 メンバー達がメイク室をのぞくと、トラブルと目が合った。


 いや、トラブルはどこも見てはいなかった。


 視線は宙で止まり目は大きく見開いている。肩で息をしながら、右手でカッターナイフを持ち、左手で胸元を押さえていた。


 いつもの黒いTシャツが破れている。


 誰がどう見ても、何があったのか一目瞭然だった。


 その状況を更に特異なものとしているのは、カッターナイフがトラブルの、自分の首に向いている事だ。


 3センチほどのキズから血液が赤い糸の様に流れ出ている。


「トラブル……」


 セスの声でトラブルは我に返る。カッターナイフを投げ捨ててリュックをつかみ、胸元を押さえたまま廊下に走り出た。


「ま、待てっ!」


 セスが後を追う。


 ゼノが「警察に……」と、言うと、皆が一斉に喋り出した。


「襲われたってこと⁈ 」

「刺されたの?」

「いえ、自分でカッターを持ってました」

「やめろって叫んでた」

「死のうとしたってこと?」

「俺が悪かったって?」

「どういうこと?」


 マネージャーが「代表に連絡します」と、スマートフォンを取り出す。しばらくして、今、見た出来事を話した。


「……まだ、メイク室の前です……いえ、未遂だと思います……はい、メンバー達も見ました……全員ここにいます」


 セスが息を切らして戻って来た。


「見失った。バイクがないから帰ったのかも」


 それを聞いたマネージャーは、もう社内にはいないと思われると報告した。


「はい……はい……分かりました」


 マネージャーは通話を切る。


「代表がパク先生に連絡をするそうです。宿舎に帰りますよ」


 マネージャーはメイク室の明かりをパチンと消した。

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