第470話 5人目が生まれたのでバイトを決めました


 トラブルがイム・ユンジュの診療所に着くと、受付の看護師の姿はなかった。


 トラブルは診察室のドアをそっとノックして入る。


「ああ、ミン・ジウ。早かったですね。少し待っていて下さい」


 イム・ユンジュ医師はテオの薬を調剤していた。


 いつもなら受付で暇そうにふん反り返っている看護師の仕事を、不慣れな手つきで行う医師を見て、トラブルは首を傾げた。


看護師は休みですか?


「いや、昨日の夜中に産気さんけ付いて10分後に生まれたのですよ。5人目が。で、そのまま産休に入りました」


10分⁈ さすが、5人目。


「男の子だったそうです。5人目も」


も⁈


「本当は女の子が欲しかったそうですよ。まあ、4人のお兄ちゃん達が可愛がってくれるでしょうから……彼女なら5人の男の子の子育ても、軽々とやり遂げますよ」


で、慣れない作業をしているのですね?


「まだ、どこに何があるのか把握していなくて……彼女、ああ見えて片づけ魔なんですよ。さて、薬袋やくたいはどこかな……?」


 イム・ユンジュは薬棚のあちらこちらを開けながら、薬を入れる袋を探した。


 トラブルは、ため息をついて受付に入り、辺りを見回して、お望みの薬袋やくたいを見つけた。


「あー、それです! どこにありました?」


 トラブルは受付の一角を指差す。


「そこでしたかー。覚えておきます」


看護師を雇えば良いのでは?


「んー、短期なら雇えるかもしれませんが、そんな余裕は……」


 医師の目がキラリと光る。


「ミン・ジウ! 週休2日ですよね? その2日、バイトに来ませんか? 私は24時間対応ですが、看護師は9時〜5時で構いませんよ」


私は高いですよ。


「元・主治医割引で」


そんなモノありません。セレブ患者に自費診療を勧めて稼げば良いのでは?


「私の患者は一般庶民なんです。設備投資をする余裕もありませんよ」


ニンニク注射くらいは出来るでしょう。


「ああ、なるほどー。で、ついでに検診もして病気の早期発見につなげる事が出来ますね」


真面目というか堅物というか……。


「医師が真面目で何が悪いのですか。さあ、テオさんの薬と……ミン・ジウ、採血しますよ」


今日は薬を取りに来ただけです。


「どうせ、鉄剤もサボっているのでしょう。腕を出して下さい」


急ぐので。


「うちの売り上げに協力して下さいよ。さあ、座って。それとも立ったまま採血しますか?」


 トラブルは、まったくと、頭を振りながら大人しく座った。


 イム・ユンジュは手早く採血を行う。


「エコーは、どうしますか? ついでに受けて行きます?」


結構です。


「はい。では結果は送りますから。お大事にー。あ、明日はバイトに来られますか?」


 諦めていなかったのかと目を細めて手話をする。


遠隔診療が中心なのに看護師は必要ないでしょう。


「処方箋の郵送や電話の応対など、雑用がたくさんあるのですよ」


私は電話の対応は出来ません。


「あ、それは私がやります。鑷子せっしやゾンデの洗浄・滅菌、掃除なども1人では大変で」


そのうち慣れますよ。


「助けると思って!」


……週1なら。


「よし! 週1で! 明日は来れますか?」


……9時ですね。


「遅刻OK! 退勤時間も自由で良いです。これが合鍵で出勤したらすべてのPCを立ち上げて、前日の片付けと掃除をお願いします。薬品請求と物品請求はこの用紙で。あ、FAXの電源も忘れずに。お昼は出前か弁当持参でお願いしますよ。えーと、あとは……」


働かせる気、満々ですね。


「もちろん! 元は取りますよー」


……代表に副業の許可を貰って来ます。


「え、許可がいるのですか⁈ では、ボランティアという事では?」


バカ。


「主治医に向かってバカとは何ですか!」


ただ働きはしません。許可を取って明日来ます。契約書とタイムカードの準備をお願いします。給料は明細書と共に下さい。


「相変わらずチャッカリしていますねー。タイムカードはないので、ノートにでも付けておいて下さい」


了解。


 トラブルはテオの薬を持って、診療所を後にした。






 テオは衣装合わせの為、会う事は出来なかったがマネージャーに薬を預け、代表のもとにバイトの許可をもらいに行く。


 代表はトラブルからバイトと聞かされ、眉間にシワを寄せた。


「バイトが必要な給料じゃないだろう。その医者に、お前をオーバーワークさせるなと言われているのだが?」


人手不足中の一時的なバイトです。


「そうか。まあ、禁止しているわけではないから好きにしろ」


 トラブルは頭を下げて代表の執務室を出た。


 テオに薬の説明をしようとメンバー達の控え室をのぞくが、すでに次の現場に出たあとだった。


 トラブルが医務室を締める時間になってもメンバー達のスケジュールは終わらず、その日は結局、テオに会う事は出来なかった。


 帰り道のスーパーでトラブルは迷う。


(今夜、テオは来るかなぁ。晩ご飯、どうしよう……)


 トラブルはテオがワインを飲みたがっていた事を思い出し、テオがいつ来ても良い様に乾燥のパスタとオリーブオイルを買って帰る事にした。


(これなら日持ちする。ニンニクはあるし……あ、フランスパンも買おう。テオが来なければ朝食にすればいい)


 トラブルはバイクを走らせ帰路に着いた。


 就寝時間になってもテオから連絡は来なかった。トラブルは待つのをやめて、眠った。






 深夜、トラブルが眠っているとテオから着信が入る。トラブルは眠い目をこすって応答した。


『トラブル? ごめん、寝てるかなぁとは思ったんだけどさ。収録が押しちゃって。薬、届いたよ。ありがとうね』


飲みましたか?


『うん、さっき夜分を飲んだよ。明日の朝も早いんだけど、朝ごはんを食べたら飲んでイイよね? 朝昼兼用になっちゃった時はどうすればイイの?』


多少時間がズレても時間で飲んで下さい。空腹でなければ大丈夫です。


『うん、分かった。起こしてごめんね。子守唄歌ってあげるね』


 テオは甘い声で歌い出し、トラブルは目をつぶってそれに聴き入った。


 しばらくして、テオはトラブルが眠ったか小声で確認をする。


『トラブル? 寝た? 僕も寝るね。おやすみ』


 トラブルは薄目を開けて、テオが通話を終わらせたか盗み見る。

 

(テオ、子守唄ありがとう。でも、目がえちゃったな……)


 トラブルはベッドを降り、冷蔵庫から水を取り出して対岸の夜景を眺めながら飲み干した。

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