第119話 俺の時間の確保


「はーい!」


 ジョンが元気に手を挙げた。


では、歯を磨いて来て下さい。


 テオが訳す前に「歯磨き!」と、洗面所にねて行く。


「ジョンは手話をどんどん吸収しているね」


 トラブルは、テオかセスが教えていると思っていた。


「ううん、僕は教えてない。セスは?」

「俺もだ。見ているだけで自然と身に付いているんだろうな」

「脳が柔らかいのですね」


 ゼノは7歳年下のジョンが羨ましいと言う。


「僕も全然覚えられないよ」


 ノエルが髪をかき上げる。


 皆さん、ありがとうと、トラブルは頭を下げた。


「こちらこそですよ。セスがファンミーティングの時に手話で挨拶をしたら喜んでくれた方がいて、とても良い雰囲気になりました」

「そうだ。あの時、3人組の女の子が3人とも手話を使っていたよね? 1人、手を握って変わった手話をしていたよ」


 ノエルは指を動かして見せる。


「目の不自由な子だった」


 セスが補足した。


それは、触読手話しょくどくしゅわと言ってろうから盲聾もうろうになり、目の見えない方が触って行う手話です。


「お前も出来るのか?」


手話自体は普通の手話です。読み取る側の訓練が必要になります。


「ちょっと、やってみろ」


 セスが手を出して目をつぶる。


 トラブルはセスの手の平で簡単な指文字を繰り返すが、セスは首を傾げて「全然、分からん」と、目を開けた。


 テオは声を殺して笑い出す。


「テオ、トラブルは何て言ったの?」


 髪をかき上げる癖のある幼馴染に、吹き出しそうになりながら、そのままを伝えた。


「バカ」


「ふざけんなっ」


 セスがトラブルを蹴ろうとするが当たらない。


「セスにバカと言われる事はあっても言う機会はないですからねー」


 ゼノの言葉に、うん、うんと、うなずくトラブルとテオとノエル。


「ざっけんなっ」


 語尾を強めるセスとは反対に「ただいま〜」と、ジョンが緩〜く戻って来た。


「歯磨きして、水飲んで、トイレ行って来た」


 褒めてと胸を張るジョンにトラブルは、おーと、拍手をした。


「僕、絶対に寝ないから!」

「いや、寝ろよ」


 セスのツッコミを無視して、はいはいと、ジョンの腕を引いて部屋へ消える。


 ドアが閉まって5分後、トラブルがリビングに戻って来た。


「え、嘘でしょ⁈」

「ジョンは寝たのですか⁈」


 秒殺ですと、トラブル。


「さすがジョンと言うべきか、さすがトラブルと言うべきか」


 ゼノが呆れて言う。


 トラブルはリュックから酸素を測る器具と聴診器を取り出し、ジョンの部屋に戻って行った。


「仕事は忘れていないワケですね」


 ゼノは呆れながらも感心した。


「次は僕が寝かしつけしてもらおうかなー」


 ノエルは甘えた声を出す。


「自分で寝ろ」

「う、そうだけど。熟睡感が違うんだもん。お酒も飲んでないし。テオ、トラブルに頼んでもいい? テオが嫌なら……」

「いやー…… じゃないよ。うん、大丈夫」

「ありがと。ん?」


 見上げるとトラブルがノエルの腕をつかんでいた。


 歯磨きと、ジェスチャーで言う。


「あ、はい」


 ノエルは小走りで洗面所へ向かう。


 なるほどと、ゼノはうなずいた。


「トラブルは始めから全員の寝かしつけをするつもりだったのですね?」


 はいと、うなずき返す。


「そんなに我々は疲れているように見えますか?」


はい。芸能界の中でも特にアイドルは酷使こくしされます。その中でも、あなた達のスケジュールは異常です。


 他にアイドルが在籍していない会社に所属しているので、何が異常なのかテオ達には分からなかった。


 しかし、休暇が減った事やレッスンの時間が確保しにくくなっているとは感じていた。


「だから、代表はテレビ収録のセットを社内に作ったのかなー?」

「お、ノエル、鋭いですね。移動時間がなくなると我々が楽になるとマネージャーは言っていましたよ」


 ゼノは微笑む。


「騙されてるぞ」


 セスは、移動時間をなくしたのは収録時間を増やしたり他の仕事を入れる事が目的だと持論を展開した。


「え、マジ⁈ 今より仕事が増えるの⁈」


 歯ブラシをくわえたままでノエルが目を丸くする。


「仕事が増えるのは幸せな事ですよ」


 ゼノは嫌そうな顔をするノエルをたしなめた。


「そうだけど、オフが半年に1回なのは辛いよ」


 しょぼくれるテオにトラブルは、そうではないと思いますよと、言った。


代表はセスの作業時間を確保する為に移動時間の省略をしたのだと思います。


「俺⁈」


はい。数ヶ月前、代表はセスがスランプに陥っていると相談に来ました。私はスランプに対処するには、関係のない事をしてリフレッシュするタイプと、とことん自分を追い詰めていくタイプがあると説明しました。代表はセスを後者だと言いました。だから、今のままのスケジュールをこなしながら作業室にこもる時間を増やしてほしいのですよ。


「別に、今日みたいに残って作業出来るのにか?」


 その答えをゼノが言う。


「セスは夜に作業をすると、そのまま泊まってしまいますからね。体に良くないですよ。それに、セスがいなければ我々の夕食は、ずーっとインスタントラーメンです」

「ゼノが作ればいいだろ。食ってから帰ってもいいし。大体、何で俺だけなんだよ。ゼノの作業時間の確保って意味もあるだろ?」

「私はスランプに陥った事はありませんから。スタンダードにビートもラップの歌詞も締め切りを守っていますからね」

「マジか…… 」


 職人肌のセスはそう言い切るゼノに、信じられないと、目と口を開く。それを横目にトラブルが質問をした。


私は作詞作曲は分かりませんが、1人で1曲を作るものではないのですね。


「俺は編曲以外は1曲全部丸ごと自分でやってるけどな」


 ゼノに向かい挑発するように言う。


「それは、その…… スタイルの違いですよ。確かに今までヒットした曲はセスか作曲家の先生の作品ですけど…… 」


 ゼノは言葉を濁す。


「ゼノ、部分的に大量生産しないで1フレーズ出たら前後を考えるんだよ。そのフレーズを活かすには、この音から入って、この音から出ると耳に気持ちいいとか、メンバーが踊りやすいとか、ここはノエルに歌わせたいとか…… 」


 2人は作曲談義で盛り上がり始めた。


 トラブルはノエルの手を引き、ノエルの部屋へ行く。


 テオは1人、その背中を見送った。

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