第526話 オペを始めます

 

 やはりスハルトは微熱を出していた。


(うーん。子供だし平熱は高めだろうけど、血液検査をしたい。免疫抑制剤の血中濃度も……なんて、無理だよねー。検査らしい検査はどこまで行えるのだろう……)


 トラブルは病院内を歩き回り、検査機器を探すが、そのどれもが水に浸かり使い物にならないか、落下して破損していた。


(ポータブルのエコーでも生き残ってないかな。血流が測れるやつがあれば良いのだけれど……)


 2階の暑さ対策のためか開け放たれた手術室の前を通り掛かると、手術台に人が寝かされていた。


 その手術台を2重にスタッフが取り囲み、患者の両手足を見ている。


(ルート確保中か。手こずっているみたいだな)


 恐らく誰かが足の静脈へ針を刺しているのだろう。しかし、失敗した様子で「あー……」と、落胆の声が上がっていた。


(可哀想に。ルート確保出来なければオペは始められない。手遅れにならなければ良いのだけれど……さて、エコーはあるかなぁ)


 トラブルは、その手術室をのぞき見る。すると、手術器材の置かれた一角に超音波らしき小さな機器を見つけた。


(あれかも。お邪魔しまーす……)


 腰を曲げて、手術室に入る。


 そーっと、目立たない様に機器に手を伸ばした瞬間、「ヘイ! ユー!」の大声と共に、その場の全員の視線がトラブルの背中を刺した。


(見つかった……)


 曲げた腰を伸ばして振り向くと、例の偏見の塊の大男が仁王立ちしていた。


(また、こいつか。あー、これを借りたいんだけど……)


 トラブルは作り笑いで機器を指差す。


 大男はまた、何かを大声で叫びながらトラブルに歩み寄って来た。その後ろには同じ様な目を向けるスタッフ達の顔が並ぶ。


 その勢いに、さすがのトラブルもひるんで後退りをした。


「ここはオペ室です! マスクをしなさい!」


 突然聞こえて来た英語の怒号の主は、スハルトをてくれた黒人の医師だった。


 医師は、トラブルに新しいマスクを投げつけて、大男の前に入り、トラブルと向き合った。


 マレー語で叫ぶ様に言う。


「何をしに、ここに来たんだ!」


 言葉が理解出来ないトラブルは、投げつけられたマスクを握って、ただ固まるしかなかった。


「マレー語も分からないでボランティアとは!この黄色い猿は何をしに来たんだ?」


 医師は、大男や周りのスタッフをあおる様に肩をすくめて見せ、トラブルを笑い者にする。


「マレー語が分からないなら英語はどうだ? 何をしに来たんだ⁈」


 医師は、前半をマレー語で、後半を英語で言った。


 トラブルの顔から血の気が引く。


(ここで筆談をすれば私が障害者だと知られてしまう……でも、エコーを……でも、追い出されたら子供達の世話が……)


 答えられずにいるトラブルに、医師は顔を近づけて怒鳴った。


「マスクをつけろ! 何? はい? ハッキリと発音しなさい!」


 マスクをしながら、トラブルは(⁈)と、顔をあげる。医師は続けてマレー語と英語を混ぜて話し始めた。


「何を言っているか分からない! 英語もろくに話せないのか! 何⁈ なまりが強すぎて聞き取れない! 猿の言葉は理解出来ないな! 字くらいは書けるか? まさか、文字まで猿語さるごじゃないよなー!」


 周りのスタッフが冷ややかに笑う中、医師は手術記録用紙を裏返して「書け」と、指を差す。


 トラブルは医師が差し出したボールペンを受け取り、恐る恐る、スハルトに腹部のエコー検査をしたいと書いた。


 それを読んだ医師の片方の眉が上がる。


 後ろのスタッフに聞こえない様に小さく英語でささやいた。


「君はエコー検査が出来るのかい?」

 

 トラブルは慌てて、返事を書く。


『医師ではないので診断はしませんが、各部位をエコーでれます』


「……穿刺せんしは?」


『得意です』


「自信があるのだね?」


 トラブルは、こくりと、しかし目に力を入れてうなずいた。


 医師は、子供が膵腎同時移植後だと正確な根拠を述べたトラブルを医師免許を持つ者だと思っていた。


 何らかの事情で障害を持つ身になり、ボランティアをしているのかと勝手な憶測をしていたが、看護師だとすれば、今、この手術室にいる誰よりも優秀かもしれないと思う。


 一方のトラブルは、医師が自分を助け様としてくれているとさとっていた。


(この患者のルートを確保出来たら、エコーを貸してもらえる様に交渉しよう)


 トラブルが、交換条件を紙に書いていると、医師はさらに大袈裟に大声を出し、皆に聞かせた。


「この、エコーを借りたいそうだ。そうだ! 皆んな、このナースの腕前を拝見してみようではないか! この患者の静脈確保が出来たら、エコーを貸してやる。どうだ? 猿の腕前を見せてもらおうじゃないか!」


 手を叩いて笑うスタッフと首を振るスタッフに分かれる。


「どうせ、散々さんざん、刺した後だ。これ以上、悪い事にはならないさ」


 反対するスタッフ達は医師の言葉に、渋々、トラブルに道を開けた。


 トラブルはマスクの下で乾いた唇を舐める。


 患者の前に立ち、静脈を探すが両腕はすでに手背まで失敗した針痕はりあとでいっぱいだった。


 両足もしかりで、針穴が痛々しいほど並んでいる。


(こんなに荒廃させる前に呼んで欲しかった)


 トラブルは次にけい静脈じょうみゃくを見る。しかし、そこも何度も刺した様に内出血してれており『これ以上、悪い事にならない』の意味を理解した。


(脱水を起こしているわけでもないのに、なんで、そこを失敗するかなぁ……仕方がない)


 トラブルは駆血帯くけつたいを患者の膝の下で縛り、足の静脈を怒張させる。針穴だらけの足背静脈の位置を確認し、指で血管を追いながら足先の血管へと視線を向かわせる。


(ここだ……)


 消毒綿で親趾おやゆびの付け根を拭き、留置針りゅうちしんをゆっくりと慎重に皮膚に沈めた。


「骨頭間静脈! そんな場所に……!」


 医師のリアクションを見る余裕はないが手応えはあった。と、その時、室内が真っ暗になる。


「停電だ!」


 スタッフが叫ぶ中、トラブルは針を進めるのを止めた。


(嘘でしょ⁈ 危な! ソン・シム、頼むよー……あ、今日は水道工事に行ってるんだった)


 手応えのあったトラブルは、このままだと針の中が血液で固まってしまう為、視界を奪われている中、自分の指先の感覚だけを信じて針を進めた。


(よし、キープ出来た。えーと、固定のテープは……)


 トラブルは目を凝らしてテープを探す。すると、誰かがパッと懐中電灯の灯りでトラブルの手元を照らした。


(ありがとう。でも、血管に入ったからテープをちょうだい)


 懐中電灯で照らしていたのは、あの医師だった。


「確保出来ているのか! 早く! 早く、固定と輸液のラインをここに……よし、誰か懐中電灯を持っていてくれ」  


 医師は点滴のチューブをトラブルに差し出し、トラブルはしっかりと接続をする。医師が点滴のクランプを開き、トラブルは針の先が腫れるなどの異常が出ないかチェックした。


 トラブルがOKと指で作ると、足の親趾おやゆびの静脈に針を刺すという離れ技を目の当たりにしたスタッフ達から、拍手が沸き起こる。


 点滴はスムーズに患者の体に入り、手術を始める準備は整った。







【あとがき】


 本文に医学用語の注釈ちゅうしゃくを入れようかと思いましたが、クドくなるのでやめました。

 エコーは超音波で内臓や血流を見る検査、または、その機器の事で、穿刺せんしは針を刺す事。

 ルートは点滴を入れる為の道の事で、針を刺して、その道を確保したという意味でルート確保と言います。 

 けい静脈は文字通り、首の静脈の事です。


 分かりやすいように心掛けていますが、普段、当たり前に使っている言葉なので、皆様の分からないが分かりません。説明が足りなければ、ごめんなさいです。

不明な点は、お知らせ下さい。

お願いしまっす!

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