第200話 違和感


 医務室を3人で出た。


 ふと、ノエルがテオを見た。


「テオ、5分後に戻って来てもいいよ」


 気を利かせて言うノエルにテオは首を振る。


「僕達、仕事中はそういう事をしないと決めたんです」

「えーと、話でもあるかなぁと思っただけなんだけど。ま、いいけど」


 テオの顔が、真っ赤になる。


「そういう事って、どういう事?」


 ジョンが、全く分からない様子で聞く。


「さあねー。ついこの間、見たような気がしたんだけどなぁ」

(第2章第182・183話参照) 


 ノエルがテオの顔をニヤニヤとのぞき込む。


「だから……だから、トラブルが絶対にダメって」


 テオは上目遣いでノエルを恨めしそうに見る。


「嘘⁈ テオー、本当にごめんー」


 ノエルが手を合わせて謝る。


「何を見たの? 何がダメなの?」

「ジョン、後で教えてあげる」

「ノエル、ダメだよ! 絶対に教えないで!」

「ジョン、ダメだって」

「テオの意地悪ー」

「違うでしょ。もー、ノエルの事、嫌いになりそうだよー」

「ごめんごめん。冗談だよ。テオちゃーん、ご機嫌直して」


 ノエルは、ふくれるテオの肩を揉みながら謝り続ける。


「僕も入れてよー」


 ジョンが2人を追いかけて控え室に入って行った。





 メンバー達を乗せた車は、時間通りに出発した。


 トラブルは、1人、パソコンに向かいカルテの入力作業をする。


 黒いスマホが鳴った。


 カン・ジフンからピクニックランチの誘いだった。トラブルは、しばらく考えて引越しの礼をしていなかったと思い出す。


(それと、この間の突然の来訪に釘を刺しておかなくては……)


 トラブルは『OK』と、返事を返信した。


 昼時ひるどき、カン・ジフンはいつもの穏やかな笑顔で現れた。


「今日は中華にしたよ」


 トラブルは笑顔を向けて、白衣を脱ぎ、医務室のドアに外出中の札を下げる。


 倉庫を横切り、外への扉にカン・ジフンが手をかけた時「トラブル」と、後ろから声をかけられた。


 振り向くと、ソン・シムが立っていた。


「ちょっと、相談があ……」


 ソン・シムは、トラブルの背後にカン・ジフンを見つけ、言葉を飲み込んだ。


「あー、メシに行く所か。じゃあ、今日でなくても……」


『どうしましたか?』


 トラブルはスマホのメモで聞く。


「いや、急ぎじゃないから、また今度で」


 ソン・シムは立ち去ろうとする。トラブルは、そんなソンを引き止めた。


『1時間で戻ります。医務室に来て下さい。私がここに来た方が良いですか?』


「いや、俺が行くよ。引き止めて悪かったな」


 カン・ジフンは「いえ」と、ソンに頭を下げて応えた。


「忙しそうだね」


 カン・ジフンは扉を押さえ、トラブルを先に通しながら言う。


 トラブルは、はいと、口パクで返す。


 倉庫を出た2人は、いつもの土手を登る。今日は真夏日だ。


「日陰に入ろう」


 カン・ジフンは、木陰にピクニックシートを広げた。


「はい、どうぞ」


 並んで座り、中華のテイクアウトの箱を開ける。


「焼きそばと炒飯、どっちがいい?」


 トラブルは、手話で答えようとする。


「?」と首を傾げるカン・ジフンの顔を見て、手話を途中で止め、焼きそばを指差す。


「OK」


 カン・ジフンは割り箸を割り、トラブルに渡した。


(割り箸くらい、割れるのに)


「辛くないと思うけど、辛かったら炒飯と交換しよう。味見してみて。ここに、お手拭きを置くよ」


 春巻きの箱を広げ、しょう油をかける。


 トラブルは、カン・ジフンが相変わらず自分を何も出来ない障害者の女の子と思っている事に、笑いがこみ上げる。


(出会った頃は、それが心地良かった事もあったけど……)


「何、笑っているの? 辛くない?」


 トラブルはジェスチャーで、いいえと、答えた。


 カン・ジフンは、それが「辛くない」の意味と取ったようだった。


「良かった」


 トラブルは焼きそばを頬張りながら、スマホのメモで引越しの礼を伝える。


「そんな事、いいよ。いつでも使って」


 カン・ジフンの柔らかい笑顔に、トラブルは手話をする。


「ん?」


 トラブルはメモで『“ありがとう” と言う意味の手話です』と説明をし、もう一度やって見せた。


「へー、そうなんだ。僕には分からない世界だなぁ」


 いつもの穏やかな物言いに、嫌味なニュアンスなど微塵みじんもなかったにも関わらず、トラブルは心が凍りつく感覚に襲われた。


(そうだ。これが、世間の反応だった……)


 トラブルは愛想笑いを返す事も出来ない。


 焼きそばを置き、メモを書く。


 カン・ジフンは、そんなトラブルの変化に気づく事もなく、キラキラと輝く川面かわもを機嫌よく眺めていた。

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