第372話 トマト吐いてる場合じゃないよね⁈


 大男の職業軍人、チョー・ミンジュンの運転する車は、午前4時の静まりかえったソウルの街を走る。


 後部座席に横になるトラブルには、どこを走っているのか見当もつかないが、自宅に送るという言葉を信じて大人しくしていた。というよりも、動けなかった。しかし、思考はクリアだ。


(カーナビも点けずに。私の家を知っているのか? 聞きたい事が多過ぎる……)


 骨折箇所がないか、自分の身体を動かして確認する。


(ひどく痛むが、折れてはいない……)


 安堵あんどと疲れで、気を失う様に眠りについた。


 漢江はんがん沿いの幹線道路を、血塗れの女を乗せたSUVは滑るように走る。


 しばらくすると、チョー・ミンジュンはブレーキを踏んで車を徐行させた。


 右へウインカーを出し、ゆっくりと砂利道に下りて行く。


 トラブルは、その揺れで目を覚ました。


 車は青い家に到着した。


 チョー・ミンジュンは運転席を出て、家を見上げる。薄っすらと明るくなり始めた灰色の空と青い家のシルエットが幻想的な姿を見せていた。


 しかし、大男は、それを感じる感性を持ち合わせていない。


 無言で後部座席のドアを開け、トラブルに手を伸ばす。


 トラブルは、その手を払い退けた。


 ゆっくりと体を起こし、車から出る。


 チョー・ミンジュンは、痛そうに自分の足を支えにして歩くトラブルの手を取ろうとはしなかった。


 ただ、トラブルの歩調に合わせ、後ろを付いて行く。


 玄関の前で、トラブルはズボンの後ろポケットから鍵を取り出そうと痛む腕を回した。すると、チョー・ミンジュンがトラブルの顔の前でてのひらを開いて見せた。


 そこには、青い家の鍵が乗っていた。


(いつの間にり取った⁈)


 トラブルが驚いた顔を向けると、チョー・ミンジュンは「同じ師匠に学んだようですね」と言い、鍵を鍵穴に挿し込む。


 しかし、青い家は鍵を回させなかった。


「あ、あれ?」


 鍵が開けられず、大男は指先に力を入れる。


 ドアがギシっと音を立てた。


(破壊するつもりか!)


 トラブルは鍵を奪い取り、ドアを少し持ち上げながら鍵を回す。


 家は、すんなりとドアを開けた。


 トラブルはドアを押して、家に1歩入る。そして、そのまま目の前が真っ暗になった。






 トラブルは顔に冷気を感じて、目を覚ました。


 見慣れた天井が見える。


 体は2階の自分のベッドの上にあった。


(私……夢?)


 横を向くと、保冷剤が顔から落ち、枕の周りに血だらけのティッシュやガーゼが散乱していた。


 体を動かすと、全身に痛みが走る。


(痛っ! 夢じゃない。腕が……腕が動かない!)


 トラブルは頭を起こして、右腕を見る。


 右腕をチョー・ミンジュンが押さえていた。


「申し訳ありません。今、点滴中ですので、しばらくお待ち下さい」


 トラブルの右腕には、見慣れた針が見慣れたテープで固定され、これまた見慣れた点滴につながれていた。


「玄関先で倒れられたので、ハン・ジョンファン氏に指示を仰いだ所、救護せよとの事でした。少々、家を捜索させて頂き、補液ほえきを開始しました。現在、マルキューマルマル。あなたは4時間ほど眠っておられました」


(マルキュー? ああ、09:00って事か。4時間……)


 トラブルは点滴のクランプを緩め、高速で点滴を終わらせた。


「それは、乱暴なやり方です。心負荷を来たします。この鉄剤はあなたのモノでしょうか? よろしければ打ちますが」


 チョー・ミンジュンは、そう言いながら鉄剤のアンプルを見せる。


 トラブルは、指を2本立てた。


「分かりました。では、抜きます」


 チョー・ミンジュンは針を抜き、止血をする。


 トラブルは、スマホをと、ジェスチャーで伝える。


「はい。ここですが、止血が完了するまでお待ち下さい。貴重な血液です。動脈血の様な色をしていて驚きました」


(こいつ、医学の知識があるのか……軍医……には見えないが……聞きたい事が山程ある)


 止血が終わり、チョー・ミンジュンはトラブルにスマホを渡した。


「ハン・ジョンファン氏より伝言です。昨夜、吐物とぶつに赤い血液の塊の様なモノが混ざっていた、これは何かと、聞く様に言われました」


 トラブルは痛む腕を動かして、代表から送られて来ていた吐物とぶつの写真を見る。


(トマトだよっ! ピザを吐いていて私を助けに来られなかったのか⁈)


 トラブルはスマホのメモに『トマト』と、書いて、大男に見せる。


「トマト……ですか? はぁ、確かに夕食後から気分が悪くなったと言っていましたが……伝えます」


 トラブルはメモで質問をした。


『代表は第2師団所属では、なかったはずです。あなたは代表を友人と言った。なぜですか?』

「代表? ああ、ハン・ジョンファン氏ですね。詳しい事はお教え出来ませんが、1度だけハン・ジョンファン氏の下で任務を遂行した事があります」

『代表は年上ですよね? 友人と言う理由を教えて下さい』

「……詳しい事は言えませんが、お互いに命を助け合いました。盟友です」

『大佐は? 何の関係が?』

「申し訳ありません。詳しくは……」

『大佐の宿舎に愛人がいた事はご存知ですか?』

「な! なぜ、それを!」

『娘ですから』

「し、しかし……噂でしか知りません。ほんの数ヶ月滞在していたと聞いています。なぜ、内部の宿舎に愛人を置いたのか。引退された今では大佐の武勇伝の様に語られるのみです。あなたはご存知なのですか」


(武勇伝ねぇ……)


 トラブルは、話題を変えた。


『私をミン・ジウだと確信がないのに助けたのはなぜですか』

「あの男が警察手帳をられたと言った時点で、ハン・ジョンファン氏の探す人物だと確信しました」


(代表は出会う人間全員にりを教えているのか⁈)


『倒れている女の子の方こそ、ご令嬢かと思いませんでしたか?』

「あ、あの、それは……」

『思ったのですね?』

「は、はい。申し訳ありません。男の関心があなたにある間に、保護を考えましたが聞いていた外見と特徴が違う為、躊躇ちゅうちょしました」


(その間も、私は蹴られ続けていたって事ね……)


 トラブルのため息を聞いて、チョー・ミンジュンは頭を下げた。


「ハン・ジョンファン氏より、黒いノラ猫の様な女性としか聞いておらず……蹴られているのは男性かと……あの男が『女』と言ったので、あなたに注目しました」


(代表め〜。ピザを詰まらせて死ねば良かったのに)


『それだけの情報で、よく動く気になりましたね』

「大佐のご令嬢とうかがったので……」


(ふ〜ん……行動理由ねぇ。命令に納得がいかなくても、自分で心の折り合いを付けるって事か……)


『私の自宅を、なぜ知っているのですか?』

「住所をもらい、事前に地図で調べておきました」

『カーナビも使わずに、ここに1発で辿り着けるとは思えませんが』

「カーナビは記録が残ります。自分は1度見た地図は忘れません」

『救急車が来るまでに立ち去ると言った意味は?』

「自分は休暇中の身であります。説明のしづらい行動は避けなくてはなりません」

『私服なのも、その理由からですか?』

「いえ、自分は兵役へいえき軍人ではありません。結婚しているので、家族との時間は軍服着用義務はありません」


 チョー・ミンジュンはトラブルの顎からぬるくなった保冷剤を取り、冷蔵庫に向かう。

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