第310話 ソウルの夜と東京の朝


 ソウルの夜景を見下ろす男がいた。


 ベッドサイドに置かれたスマホが着信を伝える。しかし、男は立ったまま窓から離れず、夜景を見続けていた。


「あなた? お仕事のメールだったら先方が困るわよ」


 女はベッドの中から手を伸ばし、男にスマホを差し出す。


 男はそれを受け取り、一目見るなりけわしい顔をした。


「悪い連絡なの?」

「いや……無事終了だそうだ」

「日本公演の事? あの子達を褒めてあげてね」

「ああ、いつも褒めているさ」


 男は腰を曲げて女の額にキスをした。


 女は満足そうな微笑みで目をつぶり、寝返りを打つ。


 男もベッドに入り、スマホの文字をもう一度見た。


(何が、無事任務完了だ。詳細を報告しろよ。……セスを見縊みくびるなよ)


 代表は夫人の背中にキスをして眠りに付いた。






 2日目の朝、日本は快晴だった。


 昨夜、朝食のオーダーを9時にしておいたので、あと2時間は運ばれて来ない。


(あー、いい天気。走りに行こうかな)


 トラブルはカメラバッグからスニーカーを取り出し、動きやすい服装に着替える。


 ポケットにスマホと少しの日本円を入れて、テオの部屋をそっとのぞくと、気持ち良さそうに口を開けて寝ていた。


 思わず微笑む。


(いい子でした。お陰でゆっくり寝れました。心配するからメモを残して行こう)


 テオのスマホの上にメモを置き、トラブルは音を立てない様に部屋を出た。


 ロビーのラウンジは、朝食を待つ人々で列が出来ていた。


(日本人の朝は早いと聞いていたけれど、本当なんだ……)


 トラブルはホテル正面から外に出た。


 行くあてもなければ土地勘もない。気ままに進む事にする。


(こっちに行ってみよう。車が多いな……)


 トラブルは、内堀通りを半蔵門交差点に向い走り出した。


 道路標識の新宿通りの文字と左を指す矢印に視線が吸い寄せられる。


(新宿……でも、住所も分からないし17年前の児童養護施設なんて、もう、ないかもしれない……)


 幼い頃の記憶は曖昧あいまいで、探し出す自信はない。


 トラブルは直進する。すると、鳥居に突き当たった。


(靖国神社⁈ こんな近くにあるんだ。どうりで緑が多いと思った)


 そして、また、新宿の文字を見つけた。


(近いのかな……もっと、調べてから、また来よう)


 九段下で右折し竹橋に向かいながら、ふと、ランナーが増えた事に気が付いた。


(ここ、ランニングコース? 私、逆走している⁈)


 ランニングステーションの看板を見つけた。


 ルートを見ると、やはりランニングコースで、しかも逆走していた。


(5キロか。ちょうどいい。戻ろう……)


 トラブルは、皇居を一周して千鳥ヶ淵ちどりがふち公園のランニングステーションに立ち寄る。その設備の充実さと清潔さに舌をまく。


(ランナーが多いわけだ。ん? いい匂いがする)


《立食い蕎麦》と書いてある、のぼりを見つけた。


(立ち食い? 立って食べるのかな……この漢字、何て読むんだっけ? あ『そば』だ。うどんもある。入ってみよう)


 暖簾のれんをくぐると、朝にもかかわらず、たくさんの人達が立ったまま蕎麦をすすっていた。


 トラブルは、見よう見まねで食券を買い、食べる場所を確保して待つ。


 すぐに『月見蕎麦、お待ちの方ー』と、呼ばれ、周囲に見習って、お盆に箸と水を乗せて運び、立ったまますする。


美味うまっ! うどんの方が美味しいと思っていたけど、本場の蕎麦はめちゃくちゃ美味しい!)


 トラブルは瞬く間に平らげ、器を返却口に返した。


(このクオリティが、安くて早い! 昨日のホテルの鯛茶漬けより感動モノだ! あ、テオと朝食を食べるんだった……怒るかな? ま、美味しかったから、今度連れて来てあげると言って誤魔化ごまかそう)


 大股で歩きながら、ジョンも連れて来てあげれば良かったと思う。


(あー、でも、日本酒を飲んでいたから起きられなかったかな……今夜も泊まるから、夜中までやっていたら連れて来てあげられる。夜中なら人通りは少ないだろうし。でも、公演の後は走る体力なんて残ってないか……)


 トラブルは、ゆっくりと走り出した。


 徐々に走るスピードを上げて行く。


 すれ違うランナーが挨拶をしてくる。トラブルもペコリと頭を下げて応えた。


(日本人って礼儀正しいイメージはあったけど、こんなにフレンドリーなんだ)


 ホテルに到着し、エレベーターでエグゼクディブスイートの階で降りる。


 メンバー達の部屋の前には朝食を乗せたワゴンが並び、ホテルスタッフがセッティングが終わったワゴンをそれぞれの部屋に運び入れる為、順番にドアをノックしていた。


 それぞれのタイミングで時間を選べられるのに、全員が同じ時間を選択していたのかと笑いが込み上げる。


 ホテルスタッフの1人が、トラブルに気が付いた。


『おはようございます、ミン様。ご朝食をお持ちしました』


(この人は確か、山田さん)


 トラブルはペコッと頭を下げて、部屋のドアを開けた。


 支配人の山田はワゴンをトラブルの部屋に運び入れる。


『ご朝食の説明を致しましょうか』


(いや、見れば分かるから)


 トラブルは首を横に振り、支配人は『それでは、ごゆっくり召し上がり下さい』と、出て行く。


 トラブルは支配人を見送りつつ、メンバー達がワゴンを受け取っているか廊下をのぞき見る。


 ゼノとセスは、眠たそうな顔を出してワゴンを受け取った。


「トラブル、おはようございます。走って来たのですか?」


 ゼノに聞かれ、トラブルはうなずいた。


「今のホテルマン、お前のワゴンだけ置いていなくなったぞ。別メニューなのか?」


 セスに、さあ? と、首を傾げ、昨日の部屋の案内も支配人がしたので部屋の担当では? と手話をした。


「支配人が部屋持ちなわけがないだろ。さすが、赤いパスポートは扱いが違うな」


 セスは、嫌味とも取れる言い方をして部屋に入って行った。


 トラブルは、ベーっと舌を出す。


 テオがドアを開けた。


『おはようごじゃいましゅ』


 片言の日本語で挨拶をしてワゴンを招き入れる。


 ノエルも無言で、ドアを開けていた。


『あの……申し訳ありませんが、こちらのお部屋の応答が御座いませんので、内線を掛けさせて頂いてよろしいでしょうか?』


 ホテルスタッフに言われ、トラブルはジョンの部屋を強くノックした。


 しかし、反応がない。


(爆睡しているか、ノエルの部屋にいる?)


 トラブルはテオを呼びに行き、ジョンの部屋に内線を掛けてもらう。


「ダメだよ、トラブル。ジョン、出ないよ。ノエルの部屋に掛けてみるね」


 テオの電話を待つ間、トラブルはもう一度、ジョンの部屋をノックした。

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