第140話 門出


 翌日の午後。


 トラブルはお手伝いさんと自室の掃除を終わらせ、カン・ジフンのトラックを待っていた。


 台所でお手伝いさんと2人、チョコレートケーキを食べながら思い出話に花が咲く。


「あなたが来てから、そりゃあ大変だったわよ。何も食べてくれないし、パク先生には何かを食べさせろと叱られるし。お風呂に入ってくれないし、風呂に入れろと叱られるし。その内、帰って来なくなったでしょ? あの看護師さん、何て名前だったかしら? そうそう、イ・ヘギョンさん。イ・ヘギョンさんと、そこら中を探し回ってね。見つからないとパク先生が怒るのよ。やっと帰って来たと思ったら、また、いなくなって。何で見張っておかなかった! って何度も叱られてねー」


 初老の彼女は懐かしそうな目をしながらうらごとを楽しげに語る。


「長いこと帰って来ない時があったわよね? あの時は随分と心配しましたよ。ひょっこり帰って来てからよね? あなたがパク先生の仕事を手伝い始めたのは。どこで何をしてたの?」


 トラブルは、すみませんでしたと、頭をかきながら、素行が悪くてパク先生の友人に預けられていましたと、お手伝いさんの手に指で書く。


「まあ、そうだったの? よほどのしつけの達人だったのねー」


 カラカラと笑う彼女の顔は可愛いシワでいっぱいだ。


 トラブルは、体に気をつけて無理をしないように。何かあれば、すぐに連絡をするようにと、伝える。


「分かってますよ。皆んな、年寄り扱いをするのだから」


 トラブルは苦笑いで返す。


 初老の彼女はトラブルが引っ越しを告げてから「寂しくなる。寂しくなる」と、何度も涙を流した。


 トラブルは彼女が唯一の心残りだった。


 しかし「パク先生から頂いたお金は、働けなくなってから大事に使わせてもらいます」と、旅行などを勧めても一切、手をつけず、気丈にも主人を失った今は寮母としての仕事に生き甲斐を見出していた。


 外からトラックの音が聞こえ、家の前で止まった。


 トラブルは表に出てカン・ジフンを出迎える。


 カン・ジフンはトラブルが有名なカメラマンと暮らしていたと始めて知った。


 トラブルはお手伝いさんにカン・ジフンを紹介する。


 いつもの優しい笑顔で挨拶をするカン・ジフン。


「まあまあ、そうだったの。あら、嫌だわ、この子ったら何も言わないから。素敵な人じゃない。それならそうと言っといてくれても良いでしょう。まあまあ、ご迷惑をおかけすると思いますが、末永くよろしくお願いしますね」


 お手伝いさんは顔を赤くしながら何度も頭を下げる。


 カン・ジフンは「は、はい。こちらこそ……?」と、頭を下げながらトラブルをチラ見し、トラブルは、ごめんと、手を合わせた。


 ダンボールを運び出した頃、パク事務所を引き継いでメインアシスタントから代表取締役に華麗な転身を遂げたキム・ミンジュとアシスタント達が顔を出した。


 トラブルは、お世話になりましたと、頭を下げる。


 キム・ミンジュ達は、引っ越し業者ではないカン・ジフンを見て、あからさまに驚いた表情を見せるが「困った事があれば、ここに戻って来るように」「時々は顔を出せよ」「近況報告して下さい」と、口々に言い、トラブルと握手を交わした。


「パク先生は、あなたを拾って幸せでした。トラブル……いや、ミン・ジウさん、あなたには誰かを幸せにする力があります。だから自信を持って、パク先生のように人生を楽しんで下さい」


 キム・ミンジュはトラブルと握手をしながら深々と頭を下げる。


 トラブルもキムの手を両手で握り返して頭を下げた。


 トラブルはお手伝いさんにハグをしてトラックに乗り込む。


 事務員も顔を出し、思いもよらずたくさんの人に見送られながら、パク・ユンホ宅に別れを告げた。






 揺れるトラックで鼻をすする音が聞こえる。


 助手席に目をやると、トラブルは遠くを見て泣いていた。


 カン・ジフンにはその涙はただの別れの涙に見える。何も言わずティッシュを差し出す。トラブルは受け取り、目頭を強く押さえた。





 漢江はんがん沿いの幹線道路でカン・ジフンが始めて口を開いた。


「どこを入ればいいの?」


 トラブルは指を差して道を教える。


 トラックは右折し、ゆっくりと舗装されていない道を下った。


 背の高いあしの中の、古びた青い家の前にトラックを止めた。


「ここ?」


 はいと、トラブルは助手席から降り、青いドアに鍵を差し込み、少し持ち上げながら回した。


 ドア横のスイッチを押すと明かりが灯る。


 カン・ジフンは「はぁー……」と、見回しながら家に入った。


 トラブルは、ダンボールをここに積んでほしいと、ジェスチャーで言う。


「2階もあるの? 重いのはトラブルの部屋に運ぼうか?」


 トラブルは首を振り、大丈夫と、伝える。


 たった数箱のダンボールの引っ越しは終わった。


 トラブルはメモで感謝を伝える。


「いいよ、いつもひましてるから。荷解にほどき手伝おうか?」

『自分でゆっくりやります。本当にありがとう。

次のランチは私がおごります』

「期待しないで待ってるよ。バイクは会社? 明日の朝、迎えに来ようか?」

『明日は休みにしているので、手の空いた時に取りに行きます。大丈夫です』

「そうか。じゃ、帰るね」


 カン・ジフンは家の前でトラックをUターンさせ、幹線道路へ消えて行った。


 トラブルは手を振りながら見送る。トラックが見えなくなると腕まくりをした。


(さて……)


 荷解にほどきにかかる。


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