第358話 ハン・チホの決心


 テオは、スマホの中のトラブルの寝顔をじっと見て、小声で呼び掛けた。


「トラブル、トラブル」


(ふふっ、完全に寝てる。触りたい……そうだ、スクショしちゃお)


 寝顔をスクリーンショットして、画面を撫でる。


(トラブルの全部が好きだよ。きっと、トラブルが道端の小石でも、僕は、なぜだか気に入って、ずっとポケットに入れて大事にしていたと思う……すごく大事……トラブルが安心して寝られる様に、いつでも歌ってあげるからね)


 画面の中でトラブルは寝返りを打ち、テオのスマホは白いシーツだけを写した。


(おやすみ……)


 テオはスマホを切って、ワインを飲み干す。






 翌朝、練習生の宿舎にハン・チホが戻って来た。


「また、よろしくお願いします」


 ハン・チホはチョ・ガンジンに頭を下げた。そして、マネージャーの裏の顔を目の当たりにする。


「いやー、お前が戻った事は他の子達にいい刺激になる。よく、決心してくれた。俺は信じていたぞ」

「あ、ありがとうございます。頑張ります」


 事情を知らされていなければ信じてしまいそうな自信に溢れた笑顔に、17才の少年はゾッとする。


「あの、これ……」


 ハン・チホはスマホを差し出した。


「いやいや。皆んな、スマホを返すぞ。来月のテストの様子と合わせて、デビューまでのビハインドを作成する。日常の様子や、練習風景を皆で撮り合え。食事風景やお互いにインタビューし合うのもいいな」


 何も知らない練習生ら3人は、スマホの返還に顔を見合わせて喜んだ。


 チョ・ガンジンは、さらに喜ぶ提案をする。


「買い物に行こう。ハン・チホも戻って来た事だし、日用品の補充と……靴を買ってやろうか?」


 3人は喜び勇んで外出の準備を始める。


 ハン・チホはリビングでチョ・ガンジンに呼ばれ、今月の生活費を渡された。


「いろいろ、物入りだろう。少し多めに入れておいたからな」

「あ、ありがとうございます」


 深々とこうべを垂れるハン・チホにチョ・ガンジンは満足そうにうなずく。


 ハン・チホが部屋に入ると、3人のルームメイトは着替えながら、マネージャーの機嫌が良いのはなぜだろうと、話をしていた。


「なあ、チホ。なんでだと思う?」

「さぁ、分からないよ」

「あ、もう、生活費をもらったの? 何か封筒が大きくない?」

「うん。物入りだろうって、多く入れてくれたって」

「え! いいなー。マネージャーの機嫌が良い時に帰って来てラッキーだったね」

「うん、そうだね。……このお金でさ、もう少し部屋を飾ろうよ」

「いいの⁈ 僕、ここに鏡が欲しいんだ」

「僕は掃除機! すぐに動かなくなるからさー」

「僕はカーテンを新しくしたいな」

「皆んなー、それは自分達で買わなくていいみたいだよ。他のグループはマネージャーに言って、会社に買ってもらってるってさ」

「本当⁈ 知らなかったー」

「だから、好きな物買おうよ」

「やったー! 何にしようかなぁ」

「靴を買ってくれるって言ってたから、服も欲しいなぁ」

「新しいデニムが欲しい!」

「あ、それイイ! 撮影するから、カッコいい練習着にしようかなー」

「迷うよねー」


 同い年の3人が無邪気に盛り上がる姿を見て、ハン・チホは、かつての自分を振り返る。


(皆んな、家電を自分で買わされたり、会社が買ってくれるって教えてくれないマネージャーに疑問を持たないんだ……僕は、おかしいって思って、でも、上手く言えなくて体調を崩してしまった……今度は上手くやる。そして、皆んなを助けるんだ……)


 チョ・ガンジンと少年4人は地下鉄に乗り、にぎやかな繁華街の明洞みょんどんショッピングストリートにやって来た。


「うわー、人がたくさんいる! 僕、始めて来たよ」

「あれ? どこ出身だっけ?」

釜山ぷさんだよ」

「そうか、なまりがないから分からなかったよ」

「本当? 嬉しい」

「あ! 靴がある!」


 少年の1人が靴専門店を見つけ、指を差した。4人はチョ・ガンジンの顔を仰ぎ見る。


「約束したんだから買ってやるぞ。おい、お前らブランド品はやめろよー」


 4人はスニーカーを手に取り、気にいる一足を探し始める。


 ふと、ハン・チホはチョ・ガンジンと目が合った。


 ギョッとしながらもさとられまいと勇気を出して「ありがとうございます」と、笑顔を向ける。


「お、おう」


 チョ・ガンジンは、まんざらでもない様子で返事をした。


(代表がハン・チホのどこが気に入ったのか知らんが、今、恩を売っておけば……有名になったらデビュー前に靴を買ってくれた恩人と思い出せよ……)


 それぞれ気に入ったスニーカーを手に、レジに並ぶ。


 チョ・ガンジンは4足分を現金で支払った。


(本当に買ってくれた。もう僕の口座から引き出したって事か……)


 ハン・チホは、チョ・ガンジンがレジ横に捨てたレシートを、さりげなく拾いポケットに入れた。


「あ、あの、チョ・ガンジンさん、洋服と雑貨屋ものぞいて、いいですか? 自分で買いますから……あの、撮影もあるし」


 チョ・ガンジンはすこし考える。


(ま、金は渡してあるし、ガキのお守りは面倒だ……)


「いいぞ。今日はお前が戻った日だから、特別にフリーにしてやる。お前、医務室に行く時間は守れよ。では、解散!」

「ありがとうございましたー!」


 チョ・ガンジンは4人の少年に頭を下げられ、満足して雑踏に消えた。


「今日、フリーだって!」

「練習しなくていいの⁈」

「チホ、医務室には何時に行くの?」

「好きな時間でいいって言われてる。メールすれば僕に合わせてくれるってさ」

「じゃあ、夜まで遊んでいいの⁈」

「やったー! ゲームセンターに行こうぜ!」

「カラオケの方がいいよー」

「とにかく、服を見に行こう! それから、お昼をどこで食べようか?」

「うわ、昨日から嘘みたいに、いい事ばかりだよー」

「行こう! 僕、行きたい店があるんだー」

「レッツゴー!」






 トラブルは、少年達と別れたチョ・ガンジンの後を付けて歩いていた。


(未成年者4人を置いて……どこに行くんだ?)


 チョ・ガンジンは昼間から営業しているバーに、慣れた様子で入って行った。


 トラブルは、その様子をスマホで撮影し、代表に送信する。


(昼酒とは大胆なサボりだな。さて、ハン・チホの所に戻るか……)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る