第374話 おすわり


 トラブルが目覚めた時、窓の外はすでに赤く染まり始めていた。 


 全身の痛みと倦怠感けんたいかんに襲われながら、寝返りを打つ。


「起きられますか」


 チョー・ミンジュンが声を掛ける。


(誰? あ、あー、そうか……まだ、いたのか……今、何時だろう。イタタ……)


 トラブルはスマホを探して枕元に手を伸ばす。


 チョー・ミンジュンは「現在、イチロクイチマル。5時間眠っておられました」と、トラブルの手にスマホを渡す。


(イチロク……16:10……え⁈ 4時⁈ マジかー)


 脱力するトラブルの口に、チョー・ミンジュンはストローを近づける。


「スポーツドリンクです。飲んで下さい。しみますか?」


 トラブルは指を2本あげた。


「では、食事にしましょう」


 台所に消えるチョー・ミンジュンを見ながらまぶたに手をやると、左目の上にガーゼが貼られていた。


(止血して、処置をしてくれたんだ……)


 チョー・ミンジュンは台所から小鍋に入った粥をベッドに運んだ。


 トラブルは鍋を見て驚きながら、あんぐりと口を開ける。


 大男はそのガタイに似合わないほど繊細な手つきで少量の粥をスプーンに乗せ、トラブルの口に流し込んだ。


 空腹だったトラブルはゴクリと飲み込む。


(玉子粥だ……嘘でしょ。大男、料理すんの⁈ 美味しいんですけど!)


 トラブルはベッドに起き上がり、大男から鍋を奪って自分で食べ始める。


(イタタ……でも、美味しい。イタッ、美味しい……今日、始めての食事だよー。……ヤバい、おしっこが漏れそうだ……」


 トラブルは鍋を横に置いて、トイレに立つ。


(あー、腰が伸びない……イタタ……っちゃうっちゃう……)


 お婆さんの様に腰に手を当てて急ぐトラブルを見て、チョー・ミンジュンの頬は緩む。


 代表にメールで報告する。


『ノラ猫は食事中。全治3週間。帰宅します』


 すぐに返信が来た。


『休暇を台無しにして、すまなかった。この埋め合わせは、いつか必ず』


 チョー・ミンジュンは、鍋の横に痛み止めの錠剤を置き、青い家を後にした。


 トイレに座るトラブルは、下腹部を押さえながら用を足していた。


(こんなに尿意があるのに、少しずつしか出ない。どんだけ我慢していたんだろう……)


 自分の膀胱の容量に驚きつつ、なんとか終わらせ、手を洗いに洗面台に立つ。


 鏡で顔を見ると、左のまぶたは平らになっていた。


(それにしてもひどい顔だ……歯が折れなかったのは不幸中のさいわいだな……)


 ベッドに戻ると、チョー・ミンジュンの姿はなかった。


 鍋の横に半分に割られた薬が置かれている。


(本当、よく気の利く大男だこと……チョ・ガンジンの件は代表に任せよう)


 トラブルは鍋の粥を平らげ、薬を飲んで、血液と泥にまみれた服を脱ぐ。


 スウェットに着替え、シーツを新しく交換した。


(痛いー……えっと、湿布を貼ろう)


 足と腰に湿布を貼る。肩と首にも貼り、腕を回して動かした。


(背中にも貼りたかった。テオがいれば貼ってもらえたのに……会いたいなぁ。いや、こんな顔は見せられない。泣いて、代表に怒って、会社を辞めろって言い出すな……あー、でも会いたいよー……)


 トラブルは時計を見る。 


(5時か、そろそろ公演が始まるな。今日は名古屋か……そういえば、昨夜はテオから連絡がなかった。あ、私から連絡するって言ってあったんだっけ? 心配しているかな。でも、開演前だから後にしよう。ノエルとゼノに迷惑掛けているんだろうなー……)


 トラブルは念の為にと、テオにラインを入れた。


『昨日は立て込んでいて、連絡をしなくてごめんなさい。私は元気です。今日も最高にカッコいい姿を見せて下さい。ノエルに迷惑を掛けない様に。ゼノの言う事を聞いて。セスの言う事は聞かないで。ジョン、おすわり!』


 自分で打った最後の一文に思わず笑ってしまう。


(イタタ……さあ、もう、ひと眠りしよう……)






 トラブルの読み通り、名古屋でテオは朝から、皆に迷惑を掛けていた。


 まず、結局、ノエルの部屋では寝ずに自分の部屋に帰っていた為、朝イチでノエルを慌てさせた。


「もー、テオ。韓国に帰っちゃったかと思ったよー」

「ごめん、ノエル。だってジョンが大の字で寝ていて、ノエルが隅っこで寝ているんだもん。僕、入りずらくって」


 しかも、トラブルを思い、眠れなかったせいで二度寝して寝坊した。


 移動車のドアを開けながらマネージャーが大声を出す。


「もう、リハーサルの時間ですよ! 大遅刻です! 早く、早く!」


 そして、寝不足でソヨンに叱られる。


「クマが! 目の下に大きなクマさんがー!」


 極め付けは、トラブルを心配するあまり、振り付けが頭から飛んでいた。


「テオ! いい加減にして下さい! あと、3時間で本番ですよ!」


 ゼノに叱られても立て直すことが出来なかった。


「ごめんなさい……」


 そう繰り返し、下を向くの繰り返しだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る