第522話 膵腎同時移植


 マリアは嗅ぎ慣れない臭いと、どこからともなく聞こえるうめき声に怯えながらも、自分に出来る事はないかと辺りを見回した。


 そして、声を上げた。


「スハルト!」


 元気な子供の声に医者や看護師達が振り向く。世話役の女性がトラブルを紹介し、早速、1人の男の子の前に連れて行かれた。


「この子はスハルトという名前なの?」


 現地の看護師がマリアに聞いた。そして、トラブルに話し掛ける。


「何も答えてくれなくて、聾唖ろうあなのか発達障害か判断がつかなくて困っていたのです。聴こえていない感じはするのですが……」


 マリアはマレー語をイギリス手話に訳し、トラブルに伝えた。そして、スハルトの代わりに看護師に言った。


「スハルトは耳も口も不自由よ。頭は、少し遅れてるけど……普通よ」


スハルトは、なぜ2階に?


 マリアはトラブルのイギリス手話をマレー語で看護師に伝える。


「それが、分からないのです。この子達の先生がここに寝かせて……逝ってしまいました」 


 トラブルはスハルトを観察した。


(外傷はないみたいだけど。顔色は悪いな。汗をかいている……)


どこか痛みますか?


 トラブルの手話にスハルトは小さく首を振って答えた。


 それを見た看護師は、天を仰ぐ。


「あー、やっとコミュニケーションが取れたわ! 後はお願いね。これは、この子のカルテよ。名前と生年月日を聞き出しておいて」


 看護師はカルテを押し付ける様にトラブルに渡して立ち去った。


 世話役の女性は「皆、忙しくて……私も行きます。何かあればここに連絡して下さい」と、名刺を差し出す。


 トラブルはそれ受け取り、頭を下げて世話役の女性を見送った。


 スハルトに向き直る。


 硬い診察代の上でスハルトは少し、震えていた。


 トラブルは質問をして、スハルトも手話で答える。


 白紙同然のカルテの記入はマリアに頼み、マリアは丁寧にマレー語で書き込んだ。


 スハルトは8歳だった。空港職員の父と専業主婦の母、3歳上の姉と、両親の祖父母と両親の両親と暮らしていると教えてくれた。


両親の祖父母? 両親の両親?


「ひいお爺さんとひいお婆さんよ」


ああー……父方の曽祖父母、祖父母。母方の曽祖父母、祖父母という意味ですね?


「うん。そんな感じ」


では、12人家族?


「違うわよ。16人よ。お父さんのお父さんとお母さん。お父さんのお父さんのお父さんとお母さん。お父さんのお母さんのお父さんとお母さん。で、お母さんのお父さんの……」


 指を折って数えるマリアを止める。


分かりました。書いておいて下さい。


「OK」


 スハルトは細い腕を重そうに動かして、地震の後、母親が探しに来たが、先生が薬のある病院にいた方が良いと母親を帰したと、説明した。


(この子の親は無事だったのか、良かった……しかし、何か持病でもあるのだろうか?)


 スハルトに持病を聞いても、時々、注射を打つとしか答えられなかった。


(時々? 先生が命がけで、この子をここに置いた理由は……命に関わるから? 抗癌剤か⁈ 癌ってイギリス手話でどうやるんだっけ……ダメだ、分からない。どう伝えれば……いや、もし、この子が告知されていなかったら……知りようがない)


 トラブルはスハルトに、ここの病院に通った事はあるかと、質問した。


 スハルトは小さくうなずく。


( やった! ならカルテがあるばす! それを見れば、ん? カルテ? スハルトのカルテ……)


 トラブルはマリアの持つ、マリアの字のカルテを見た。


(いや、これじゃなくて通常のカルテは? あー、名前が分からなかったから取り出せなかったのか)


 トラブルは忙しそうに動き回る看護師をつかまえ、マリア経由でスハルトのカルテの所在を聞く。


「カルテ⁈ 外来のカルテはすべて水没して失いましたよ」


 看護師は何を言っているんだとトラブルを一瞥いちべつして、仕事に戻った。


(そう……ですよね。では、手探りで行きますか)


 トラブルはスハルトを診察する事にした。同時に、マリアにスハルトの病気は知らないかと、聞く。


「学年が違うから……知っているのは聴こえなくて喋れないって事だけ。保健室に行けばファイルがあると思うんだけど」


ファイル?


「私達の事が書いてある緑のファイルよ。検査の結果とか体の事だとか。でも、学校が崩れちゃったから……」


瓦礫がれきの下ですか……)


スハルト起き上がって下さい。


 スハルトは首を横に振った。


なぜですか?


僕は出来るだけ寝てなくちゃならないの。  


……では、寝たままで診察をしますよ。


 トラブルは聴診器をスハルトの胸にあてる。喉と目にライトをあててる。そして、体を触り、痛がる場所や異物はないか確認をした。


 スハルトは腹部を触るトラブルの手を弱々しくつかみ、嫌がった。


(痛いのかな? どれどれ)


 トラブルがシャツをまくり上げると、下腹部の左右に一本ずつ、15cmほどの手術のあとがあった。


(オペそう……同じ時期の……この位置はー……)


 その特徴的な傷痕きずあとに、すぐに思い当たった。


膵腎すいじん同時移植! 時々する注射は採血か! 薬は免疫抑制剤だ! 寝てなくてはならないということは、オペ後すぐなのか、データが安定していないのか……)


 スハルトは免疫抑制剤とは分からなかったが、薬は震災の朝に飲んだのが最後だと教えてくれた。


(2日間服用していないのか……マズいな)


 トラブルとマリアがスハルトのカルテを作っている間にも負傷した子供達の親が迎えに来ては、涙の再会をしていた。


 1人、また1人と、親や兄弟に抱かれて笑顔で帰宅する自分と年頃の同じ子供を見ても、マリアは気丈にも口を一文字にして何も言わなかった。


 トラブルはマリアの肩を抱いた。


マリア、あなたには大切な仕事があります。


「え?」


私の声になるという仕事です。あなたがいなければ、私は何も出来ない。


「わ、分かってるわよ! さあ、次は何をすれば良いの?」


 腰に手を当てて胸を張るマリアにトラブルは笑顔を向ける。


英語が読める人を探して下さい。


「英語ね。分かった」


 マリアは片っ端から人をつかまえては聞いて回った。


 トラブルはメモに『免疫抑制剤・シクロスポリン』と、英語で書く。


 マリアが男性を引っ張って来た。その男性は病院職員のようだが、医師でも看護師でもなかった。名札にはマレー語と英語で《受付》と書かれている。


(受付の方か……分かるかなぁ)


 トラブルはメモを見せる。


「シクロスポリン? これが欲しいのですか? それは、いったい何ですか?」


(免疫抑制剤と書いてあるだろが)


『薬です』


「薬局は1階奥でしたが、使えそうな物は3階のナースステーションに置いてあります」


『ありがとう。ここにマレー語でシクロスポリンと書いてくれませんか?』

「はい」


 トラブルはそのメモを持ち、マリアを連れて3階に向かった。


 3階はさらに気温が高く、大人達がひしめく空間は熱気と臭いで空気が重く感じる。


 恐らくナースステーションだと思われる場所で看護師にメモを見せた。

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