第273話 背表紙の女


 セスは寝たいと言っていただけの事はあり、焼酎を飲むとウトウトと船を漕ぎ出した。


 ゼノがマットを広げ、セスを転がして寝かせる。


 キッチンで歯磨きを済ませ、ゼノもセスの隣で入眠した。


 始めて青い家に来たノエルは、テオに1階の案内を頼んだ。


 テオはバスルームのトラブルを気にしつつ、ノエルと階段を降りる。


 幹線道路の車の流れはなくなり、夜のとばりりきり、うるさいほどの静寂せいじゃくが2人を襲う。


 真っ暗な部屋をノエルは見回す。


 テオは、明かりをつけた。


「ここが、チェ・ジオンさんの仕事場?」

「うん、そうだって」


 ノエルは、ところ狭しと置かれたカメラ達を見る。


 すべてのレンズにカバーが取付けられているが、それでも見られている様な錯覚を覚え、寒さが背中を走った。


「あ、この写真。あの写真集の背表紙だ。この女優さん、いいよね」


 ノエルは勤めて明るく、壁に掛けられた長い髪の女性の後ろ姿の写真を指差す。


「……それ、トラブルだよ」

「え、ええ⁈ まさか!」

「本当だよ。チェ・ジオンさんのお気に入りの写真なんだって」

「この背表紙が話題になったんだよ⁈ まさか、トラブルだったなんて……そう聞いて見ても、トラブルに見えないよ」

「本当? 僕、すぐに分かったけどな」

「ねえ、もしかして、この写真を見ている時にテオの中にチェ・ジオンさんを見たってなったの?」

(第2章第151・152話参照)


「うん。ここで、なった」

「そうなんだー……トラブルが美人って忘れてたよ」

「何、それ」

「だって、この写真そそられるじゃん。何か、この人は今、凄く幸せで、自分がこの人を幸せにしたみたいな…… 一緒に幸せでいたいって思う」

「うん、見た人を幸せにする写真だよね」

「トラブルって知らなければ、振り向かせたいよ」

「この時は、まだトラブルじゃないんだよ」

「……そうか、ミン・ジウ」


 ノエルはミン・ジウの後ろ姿を改めて見る。


「テオ……トラブルをミン・ジウに戻すのは無理だよ……チェ・ジオンさんにはかなわない」

「分かってるよ。チェ・ジオンさんになろうとは思っていないよ」


 ノエルは背中を向ける女から目が離せない。


「命懸けで守りたい人……命懸けで守った人……」


「ノエル?」


 テオはノエルまでもチェ・ジオンに取り憑かれたのかと不安になる。ノエルはテオの不安を払うように笑顔を向けた。


「ううん。何か、僕はこんなに人を想った事ないなぁと思ってさ。僕にも、そんな人が現れるのかなぁ」


 テオはノエルの肩に手を掛け、2人はしばらく写真を眺めた。


 2階のキッチンで物音がした。


「あれ、誰か起きたみたい」

「うん、戻ろうか」





 2人が階段を上がると、トラブルが冷蔵庫の前でしゃがんでいた。


「トラブル、どうしたの? お腹が空いたの?」


 うなずいて冷蔵庫からチャプチェの皿を取り出す。


「待ってて、僕が温めてあげるから。トラブルは寝てて」


 トラブルは、ベッドで大の字で眠るジョンを押し退け、空いたスペースに横になった。


(だいぶイイけど、まだ、血が上ったり下ったりしているな……)


 目をつぶっていると、レンジがボンっと大きな音を立てた。


「うわっ! 雑炊がレンジの中で爆発した!ノエル、助けて!」

「何やってんのー。何でラップしないのー、何分したのー?」

「分かんない」

「もう、レンジも使えないなんて……」

「雑炊、減っちゃった」

「あーあー。ほら、小鍋に移して。テオがやるの!」

「う、うん。鍋、鍋」

「で、水を足して。火にかけて。中火くらい。そう」

「あとは?」

「沸騰して来たら、卵を落としてカサ増ししよう。待っている間に、レンジの掃除して」

「はい」


 ノエルは左手で雑炊をかき混ぜ続ける。


「テオ、終わった? じゃ、卵をいて。割れるかな? 頑張れ」

「わっ、キレイに割れたよ! 僕って料理のセンスあるかも」

「はい、はい。こぼさないように溶いて。黄身と白身を切るように」

「出来た!」

「じゃ、鍋にそっと、回し入れて」

「回す? えっと、何を回す?」

「何って何だよー! 早くしないと水分がなくなっちゃうよ!」

「水、入れる?」

「薄まっちゃうでしょ! 鍋を押さえてて。見ててよ、こうやって、沸騰した所に溶いた卵を……」

「おー! ノエルさん、上手いですねー」


 テオは幼馴染を手放しで褒める。


「はい、味見して。ちょっと! お玉に直接、口を付けないの。味見は小皿に取って。そう、そうやってするんですよー」

「ジョンはいつも、お玉から味見してんじゃん」

「あれは、味見じゃなくて、食べてんの。末っ子のマネしてどうすんだよ。どう? 卵入れたから薄くなったかなー」

「んー。熱くて、よく分かんない」

「もうっ、トラブルに判断してもらおう。チャプチェも温めてっと」


 テオは分厚い医学書の上に、雑炊の鍋とスプーンと箸を置く。


「テオー、鍋のまま食べさせる気? 取り皿は?」

「そうか! 皿、皿……」

「お椀の方がいいよ」

「そうか、お椀、お椀……」


 パチンという、トラブルの指の音が聞こえた。2人が振り向くと、トラブルはベッドの上に座り手話を見せた。


「鍋のままでいいって。洗い物を増やさなくていいって」

「なるほど。僕の美学が許さないけど、ま、いっか。はい。じゃ、運んで」


 テオは医学書のお盆を、慎重にベッドに運ぶ。


「お待たせしましたー。『セスfeat.僕』の雑炊&チャプチェでーす」

「なんで『feat.テオ』なんだよー。ひどいなー」

「じゃ『セスfeat.僕withノエル』」

「長っ。もう、歯磨きして寝るよ」

「うん、ありがとねー。おやすみ」




 ノエルはバスルームの洗面台で歯を磨きながら、鏡に映る自分の姿を見る。


(気分が悪い。この感じ……何だろう? 前にも感じた、この嫌な感じ……)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る