第390話 逃げろ


「そんなわけがないだろう! 子供が時計型のカメラなんて物をどこで手に入れるって言うんだ! いつからだ! いつから盗撮していたんだ!」

「ぼ、僕、分かりません。本当に僕じゃ……」

「じゃあ、誰だ! お前らを監視して得する奴なんていないだろう! 俺か⁈ 俺が監視対象なのか⁈ 」


 チョ・ガンジンは床に時計を投げ付けた。


 大きな音を立ててガラスが飛び散る。ハン・チホは青ざめたまま、足元で砕け散った時計を見ていた。


「お前……おかしいと思っていたんだよ。代表の説得で呼び戻されたと言っていたな? 本当は違うんじゃないのか? お前、俺をおとしいれようと代表と組んでいるんだな?」

「僕は知りません! 僕は何も……」

「代表なら隠しカメラをセットする事も、お前に生活費を10倍出す事も出来るしな! しかし、移籍の話がどこから漏れたんだ⁈ 裏切り者がいるな? そいつとお前が組んで代表に……」


 トラブルはドアの隙間から手だけを入れて、スマホでチョ・ガンジンの姿を撮ろうとしていた。


 しかし、その位置からはリビングを撮す事は出来なかった。


「まさか……まさか、お前のポストゼノの話も嘘だったのか⁈ おい! 何とか言え!」

「分かりません……」

「お前がポストゼノなんて、あり得ない話だよな⁈ ちくしょう! おかしいと思ったのに……言え! お前1人で代表と動いているはずはない! 裏切り者は誰だ⁈」

「僕……」

「言え!」


 チョ・ガンジンはハン・チホの胸ぐらをつかんだ。


「痛い!」


 ハン・チホは悲鳴を上げる。


 トラブルは飛び込みたい衝動を抑えて、ドアの隙間から体を滑らせる。音を立てない様にドアを閉め、節々ふしぶしが痛む体で床を這いながら進んだ。


 四つん這いになったまま、手を伸ばして録画中のスマホをリビングの中に向ける。


 スマホの画面に大人の足と少年の足が映る。


 割れた時計のガラスがキラキラと光っていた。


 トラブルはスマホを上に向け、低いアングルからチョ・ガンジンの背中とおびえるハン・チホの姿を捉えた。


 チョ・ガンジンはハン・チホの胸ぐらを掴(つか)んだまま引き寄せ、顔を近づける。


「お前も利用されたんだろ⁈ お前レベルのガキがポストゼノだなんて信じたのか⁈ 言え! 名前を言え!」

「知りません!」

「この野郎! 今なら、許してやる。な? 今なら、俺の事務所からデビューさせてやる。いい話だろ? 代表はお前を利用して俺を罠にハメようとしたんだ。お前をデビューさせる気はないんだよ! それとも、デビューをエサに協力しているのか? なあ、考えてみろ。本当に大切な練習生に、こんな役をさせると思うか? だろ? 裏切り者を排除して2人でやり直そう。な? 誰なんだ?」


 ハン・チホは爪先立ちになったまま、恐ろしさに耐えていた。


(外に事務局長とトラブルさんがいるはず。きっと助けに来てくれる。それまでの辛抱……)


「本当に知らないんです」


 チョ・ガンジンは本性を現した。


「いい気になりやがって! 何がポストゼノだ! 10倍だ! 歌もダンスも中途半端な、お前にそんな価値はないんだよ! 何がデビューだ! お前らは俺に金を運んで来るカモなんだよ!夢だ希望だのウンザリなんだ! 俺の言う事だけを聞いておけと何度言ったら分かるんだ! クソガキが!」


 チョ・ガンジンはハン・チホを床に投げ付けた。

 華奢な体は簡単にリビングの床に叩きつけられ、そして、床の不自然な位置からこちらを向いているスマホを見つけた。


 トラブルはスマホ越しにおびえるハン・チホと目が合う。


(もう、充分だ。ここを出よう。相手は1人、何とかなる……)


 トラブルはスマホを持つ手を引く。


 ドンっという音と共に、その手に激痛が走った。


 見上げると、チョ・ガンジンがトラブルの手をスマホごと踏みながら、恐ろしい形相で見下ろしていた。


「お前、医務室の……そうか……いや、お前は代表の息が掛かっているから誘っていない……他にもいるのか……俺が声を掛けた奴らの中に……」


 チョ・ガンジンはトラブルの手を踏む足に、体重を掛けた。トラブルのスマホを持つ手が緩む。


 トラブルは苦痛に顔を歪めて、少しでも逃れようとチョ・ガンジンの足首をつかんだ。


 チョ・ガンジンは足の下の手からスマホを奪い取る。


 足に体重を掛けたまま、スマホの動画を確認した。


「フンッ、俺に隠しカメラを見つかって直接撮りに来るとは、苦肉の策か? 外で受信していたんだな? で、俺をおとしいれる証拠が足りなくて、このザマか……俺の計画を誰から聞いた? 答えろ!」


 自分の手の骨のきしむ音を聞きながら、トラブルはチョ・ガンジンをにらみ続ける。


「ああー、お前。話せないって噂は本当だったのか……なんで、そんな欠陥品が看護師なんてやってられるんだ? 愛人か⁈ イイねー、金のある男は社内に女を囲っていられるんだからよー。俺もね、そうなりたいわけ。わかる? 大人しく出て行くから、お前も代表に妙なマネはするなと言っておけ。この動画を消せば、証拠は何も残らない……俺はね悪運が強いんだ」


 チョ・ガンジンが勝ち誇って語る間、トラブルは茫然自失で床に座るハン・チホに、口パクと顎で訴えていた。


(立って、早く。立って……ゆっくり玄関に……立っていてくれないと逃げ遅れる……)


 ハン・チホはトラブルが何を言っているのか分からなかったが『立て』だけは理解出来た。


 大の大人に突き飛ばされ、女性が手を踏みつけにされている。しかも、その女性は痛みに顔をゆがめながらも『助けて』ではなく『立て』と、自分に言っている。


 ハン・チホは勇気を振り絞って、チョ・ガンジンの気を引かない様にゆっくりと立ち上がった。


 トラブルはスマホを取られた今、逃げる事だけを考えていた。


(立ち上がった……よし、いい子……あとは、この足を退けてハン・チホの手を引き、玄関に……外の車に乗れば逃げ切れる。監禁される様な事態は何としても避けなければ……)


「クックック……証拠は消えたぞ。データを修復されちゃ困るからな。このスマホは……こうだ!」


 チョ・ガンジンは床にスマホを落とし、トラブルの手から足を外して、スマホを踏み付けた。


 バキッとスマホの画面にヒビが入る。


 その瞬間、トラブルは立ち上がり、ハン・チホの手を取り玄関に走る。しかし、立ち上がる事で勇気を使い果たしていた少年は出遅れた。


「おっと、こいつには、まだ聞きたい事があるんだよ!」


 チョ・ガンジンはハン・チホの腕を捕まえた。


 ハン・チホは弱々しく、トラブルとチョ・ガンジンの間で両手を広げて大の字になる。


 そんな事は想定内だとトラブルは慌てず、素早くハン・チホを引き寄せ、セスの尻を蹴り上げる時よりも何倍も力を込めて、チョ・ガンジンの股間を蹴り上げた。


「!」


 股間を押さえ、目を白黒させるチョ・ガンジンを残し、トラブルとハン・チホは玄関を出て階段を駆け下りる。


 エンジンを掛けて待っていた事務局長は走り出て来た2人の姿を見ると、すぐにドアロックを外した。


 トラブルは後部座席にハン・チホを放り込み、自分は助手席に飛び乗る。


「クソガキがー! 証拠は何もないんだからなー!」


 チョ・ガンジンの罵声に見送られ、トラブル達を乗せた車は走り去った。

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