第278話 母の愛と黒い注射と赤いパスポート


 トラブルはスマホのメモで返事をした。


『大丈夫です。あなたと一時帰国したら、私も検査に行きます。それまでの鉄剤は処方してもらってあります』


「あの、僕の母さんの事なら気にしなくていいよ。母さんはいつも人に僕の事を頼むんだよ。僕は平気なのにね……」

(第2章第238話参照)


『私の4人の母は誰にも私の事を頼みませんでした。産みの母は、頼んだと言えるかもしれませんが』


 そのメモを読み、ノエルはしばらく間を置いた。


「……トラブルからしたら、こんなの馬鹿げた贅沢な悩みかもしれないけど、母が僕の事で誰かに頭を下げるたびに、僕は信じてもらえていないんだなって感じるんだよ」


『ノエルのお母さんは、良い人です』


「うん、分かっているよ。心配性なだけだって……」


『愛されていると感じますか?』


「えー? 愛されてはー……いるよね。うん、すごく感じる」


『母の愛とは、どの様な感じなのでしょう』


「うーん、良いところも悪いところも関係なく、存在だけで……」


(存在だけで愛してくれる……そうか、母は僕の足りない部分を人に頼んでいたんだ。僕はダメでもイイと、すでに想われていたんだ。僕がそんな人を見つけられれば……)


 黙り込むノエルの袖をトラブルは引く。


「ん? あ、何でもない。母さんの愛が大き過ぎて見えなくなっていたよ。トラブル、ありがとう」


 ノエルはスッキリとした顔で、ゼノの片付けを手伝いに行った。


 1人残されたトラブルは、天井を見上げて考える。


(母の愛は大き過ぎて見えない? 私が見えていないだけ……?)






 ただいまーと、ジョンの元気な声がした。


「トラブル、ただいま。ケーキ、冷蔵庫に入れておくね。僕達、そろそろ行くけど何かやっておいて欲しい事はある?」


 テオはベッドに座り、トラブルの頬に手を置く。トラブルはその手に頬を寄せ、リュックを指差した。


「はい、どうぞ。注射するの? 手伝う事ある?」


 顔色が少し良くなったトラブルはベッドの上に起き上がり、笑顔でテオに首を振る。


 注射器と針を取り出し、鉄剤のアンプルを割る。薬を注射器に吸い上げていると、ゼノ達が集まって来た。


「黒い薬ってあるんだね」

「ねー」


 ノエルは初めて見たと、ジョンとうなずき合う。


 トラブルは自分の左腕を駆血くけつし、アルコール綿で消毒をして針を刺した。


「い〜! 痛い〜! 見てらんなーい!」


 ジョンがやはり、ノエルの後ろに隠れた。


 そんなジョンに笑いながら、駆血帯くけつたいを外し、注射器を押して鉄剤を自分の体に入れて行く。


 トラブルは口を動かした。


「あ? 自分で打つ方が痛くないんだと」


 セスはトラブルの口を読み、ジョンに伝えた。


「ウソだ〜!トラブル、おかしいよ〜!」 


 ジョンは頭を抱える。


「ドSだからな」 


 セスが鼻でフンッと笑った。


 トラブルは薬剤を全て入れきり、針を抜いた。アルコール綿を押さえ、止血をする。


「注射は1つだけ?」


 トラブルはうなずく。


「では、そろそろ帰りますか」


 ゼノの合図でメンバー達はそれぞれ荷物を持ち、靴を履く。


 テオは、トラブルの腕に絆創膏を貼った。


「ねぇ、トラブル。明日の体調をみて無理しないでね。ノエルが診察を受けた後に日本に行ってもいいんだよ」


はい。でも、大丈夫です。


「うん……」


 テオはトラブルの髪をでる。


 トラブルの視線がテオの後ろを見ていた。振り返ると、セスが立っている。


「どうしたの? セス」


 セスはテオの質問に答えず、低い声で言った。


「赤いパスポートは解決したのか?」

(第2章第171話参照)


「セス!何で急に、そんな事……」

「ずっと、気になってた」


 もちろん、テオもそれは気になっていた。しかし、恐ろしい古傷に触れるようで言い出せないでいた。


 本当は恋人の自分が目をそらしてはいけない事のはずだとは思っていたが、その勇気は出なかった。ただ、彼女を信じていれば良いと自分に言い聞かせていた。


 テオはトラブルの返事を待つ。


解決はしていません。一般用への変更は間に合いませんでした。赤いパスポートのままなので、あなた方や他のスタッフとは別行動を取ります。


「そうか……公人こうじんとして日本に行くんだな」


はい。


「スパイと疑われない様にしろよ」


そこは、問題ありません。一般用へ切り替え中と注意書きが入っています。


「ふーん……テオ、邪魔したな」


 セスは、それ以上、何も聞かず1階に降りて行った。


「……飛行機の時間も違うの?」


はい。1本早い便です。


「そうだったんだ…… 聞いておいて良かった」


(空港で探す所だったよ……)


「1人で行くの?」


はい。


「ホテルにも? 行き方、分かるの?」


はい。日本語は読めますから。


「そっか。なら、大丈夫だよね」


 テオはベッドに身を乗り出し、トラブルの額にキスをした。


「明日から親戚のお姉さんだね」

(第2章第249話参照)


そうですね。


「……怖くない? 日本に行くの」


こわ……いです。日本が、ではなく、自分に何が起こるか分からないので。


「そうだよね。僕も怖いよ。もしも、トラブルが……」


 言いよどむテオにトラブルは首を傾げる。

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