第381話 血とトマト


 翌日、トラブルはメガネにマスク姿で出勤した。


 ユミちゃんは駐車場にバイクを見つけ、喜び勇んで医務室に飛び込んで来たが、トラブルの顔を見て立ち尽くす。


「いやー! 思っていたよりもひどいわねー」


トラブルはメモで、大丈夫ですと、伝える。


 しかし、事務局長がチョ・ガンジンといた事は伏せておいた。そして、大男に助けられた事も。


「女の子なんか助けるからよー。災難だったわねー」


 トラブルは作り笑いでうなずく。


「代表さー、胃カメラの日、ピザをバカ喰いしてたでしょー? あの後、家で吐いて夜中に病院に行ったんですって! 本当に救い様のないバカよね。なんであんなのが会社の代表をやっていられるのかしら? 世の中、おかしいわ」


(トマトを吐いた後、本当の吐血とけつをしたのか? 救い様のないバカって所はユミちゃんに1票だな……)


 トラブルは苦笑いで返す。


「あとね、昨日、チョ・ガンジンとマネージャーの1人がめたらしいんだけど、その理由がチョ・ガンジンがそのマネージャーを辞めさせようとしたんですって! 信じられる⁈ いつも、金魚のフンみたいに引っ付いてツルんでいた仲間だったのに! レッスン室の外でケンカになって、練習生達が止めたのよ!『お前が辞めろー』『お前こそ先に辞めろ!』って、殴り合いになりそうだったんだって!」


(いつも引っ付いている……あいつか……」


 トラブルは居酒屋で事務局長と店を出たマネージャーの顔を思い出す。


(仲間割れか……原因はなんだ……)


「トラブル、聞いてる?」


 ユミちゃんの声に我に帰ると、代表が医務室のドアをノックもせずに入って来た。


 代表は挨拶もせず「傷を見せてみろ」と、トラブルのマスクを取ろうとする。


 トラブルは、その手を避けて自分でマスクを外した。


 まぶたの内出血は皮膚の下を通り、顔面の横を赤紫に染めていた。


 代表とユミちゃんは息を飲むが、トラブルは内出血が表面に浮かび出て、重力で下に下がっているだけだと、説明した。


「痛むか?」

「痛いに決まってるでしょ! トラブル、可哀想〜」


痛みません。私が休んでいた間に何があったのですか?


「家に帰る途中からムカムカして来て、家に着いた途端に吹き出す様に吐いたんだよ。どこかのバカが『トマト』なんて言うから様子を見ていたら、また、粘液様の赤いモノが混ざったから、さすがにマズいと思ってな。朝を待って病院に行ったら、あのクソ医者がもう一度カメラを飲めって言い出したんだ!」


えーと、何の話をしています?


「俺は、目を見て『ふざけるな!』って言ってやったね」


だから、何の話を……


「結局、薬で症状は治ったぜ」


『ぜ』ではなく。トマトの話ではなく……


「お前の位置情報が消えた時はビビったぞ。便器につかまりながら、非番の奴を探してよー。場所を伝えては吐くを繰り返して、あれは地獄だったねー」


しみじみと言わないで下さい。私は文字通り、地獄でしたよ。


「止まらないゲロは始めてだぞ。あ、お前が助けようとして失敗した女の子だがな……」


(失敗した⁈ 胃を握り潰してやろうか!)


「命に別状はないとニュースになっていたぞ。警官2人に薬を盛られたと証言したそうだ。助けてくれた “男性” を探すってよ」


 代表は『男性』を強調して言う。


「現役警官2人を縛り上げて、名乗らずに消えた “男性” をマスコミが英雄だと騒ぎ出している。しばらくは大人しくしていろよ」


 ユミちゃんが口を挟む。


「違うわよ。捕まった警官の1人は『女』に、もう1人は『男』にやられたって言ってるのよー。だから、トラブルを助けた人がいるのよ。トラブルも被害者なんだから。ねー、トラブル」


 トラブルは曖昧あいまいうなずいて返事をした。


「……ユミ。お前、仕事に戻れよ」

「なによ、私がいたら都合が悪いわけ?」

「ああ、お前は聞かない方がいい話をする」

「フンッ、分かったわよ。その代わりランチおごりなさいよね。トラブルー、後で教えてねー」


 ユミちゃんはトラブルにハグをして医務室を出て行った。


「あいつ、メシと情報を手に入れる気だぞ。なんて女だ」


 代表は呆れながら頭の後ろで腕を組む。


さて、謝罪の言葉を聞きましょうか。


「あ? 謝罪? 俺が?」


チョー・ミンジュンに『黒いノラ猫の様な女』としか伝えませんでしたよね? それで、救助が遅れたんですけど。


「お前なー、俺は体調を崩して吐いていたんだぞ⁈ お前の身長や服装をいちいち伝えていたら、スマホにゲロが掛かる所だったんだよ!必要最低限、つ的確な表現で作戦は成功しただろうがっ」


救出作戦の対象を『ノラ猫』と伝えるバカがどこにいる! 倒れている女の子か私か、迷ったとチョー・ミンジュンは言っていました! その間も蹴られ続けていたんですけど!


「俺は便所で血を吐いていたんだよ! 大佐の愛人の顔を知らなくて、休暇中で、口の堅い奴を探すのが、どれほど大変だったと思ってんだ!」


吐いていたのはトマトです!


「血だ!」


トマト!


「ドロドロっとした血だ!」


ドロドロになったトマト!


 2人が顔を突き合わせてにらみ合っていると、気の抜けた声が掛かった。


「いったい、なにをめているのですか?」


 声の主は、裏切り者の事務局長だった。


 事務局長は代表とトラブルを見ながら、テーブルにファイルの束を置く。


「おー、ご苦労だったな。説明してくれ」


 代表はソファーに事務局長を座らせ、自分は向かい側に座り、ファイルを手に取る。


 代表は打って変わって声を低くした。そして、片方の頬を上げる。


「おい、お前も座れ。進展があったぞ」

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