第109話(2-63)不思議の国のアリス・ヤツフサ

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 アリス・ヤツフサは思い出す。

 この世界に来てクロードたちと出会う前、まだ名前のない獣だった頃のことを。

 アリスを産んだ母は言っていた。人間が来て世界を歪めた……と。

 人間たちは、先住者である獣の祖、一柱の女神を特異点に閉じ込めると、好き勝手にのさばり始めた。

 獣の女神は、やむを得ず一人の男を選んで交わり、封印から解き放たれると、世界を取り戻すべく家族を率いて闘争を始めた。

 種の生存を賭けた戦いは世界中にひろがって、女神の孫にあたるアリスが生まれた頃には、世界は獣と人が争う戦乱の渦中にあった。

 だから、アリスも戦った。さぼってゴロゴロしたり、うとうと昼寝をしたりしたけれど、それでも家族のために、自分の身を守るために、邪魔な人間てきを蹴散らした。

 当時の記憶はいくさばかりだ。大勢の人間たちが、正義だとか、愛だとか、難しい言葉を並べたてながら、手に手に武器を持って挑んできた。


(たぬの方が強いのに、なんでたぬ? こいつらバカたぬ?)


 そんな風に想った、かつての未熟を、アリスはいま心の底から後悔した。


 クロードは、戦っていた。

 右手を失い、両の足を穿たれ、心の臓が止まり、蘇生して――。

 ついに魔力が尽きて、翼をもがれ、もはや生きているのも不思議なほどの死に体だ。


(もう無理たぬっ! 逃げるたぬっ!)


 アリスは、口が泥の中に溶け落ちていたから、呻くこともできないまま、何度となく心の中で叫んだ。

 クロードは足を止めない。一直線にアリスへ向かって走ってくる。

 行く手をさえぎる白いヒトデの怪人、ドクター・ビーストに打ちすえられて、どれだけ傷つき、どれだけ血を流しても、今にも砕けそうなボロボロの刀を手にひたすら前を目指す。


「……僕の友達をかえせ、クソヤロウ!」


(クロード)


 ああ、と、アリスは理解した。

 彼は、止まらない。止まるはずがない。

 たとえ握った刀が失われようと、ドクター・ビーストの触手が嵐のように叩きつけられようと、クロードの瞳はずっと、アリスだけを見つめていたのだから。


『人間って、よくわからないたぬ。家族でもないモノを、どうして助けようとするたぬ? 悲しんだり、怒ったりするたぬ?』

『きっと、わかるよ。アリスちゃん、だから、にんげんはつよくて、あったかいんだよ』


 イスカが告げた言葉の意味を、ようやくアリスは理解した。


(そっか。だから、たぬたちは勝てなかったぬ)


 獣は、人間よりも、力に勝り、速さに勝った。でも、家族という限られた価値観と狭い視野しかもたなかった。

 アリスは前足を伸ばそうとしたが、すでに泥の中に溶け落ちていた。最後に残された金色の猫目もまた溶けて、アリスの視界は閉ざされた。


 ――だから、きっとこれは夢だ。


 アリスは、暗い暗い闇の中で、懐かしい祖母と、むかっ腹の立つ祖父の気配を感じたのだ。

 祖母がアリスに聞いてきた。お前はどうなりたいの? と。

 アリスは、悩んで、悩んで、こう答えることにした。


「たぬは、クロードの赤ちゃんややこが欲しいたぬ」


 祖母は笑いながら、困った男を選ぶのは血筋かもねん? なんて小さな声でささやいた。

 祖父がお前も成長したじゃないかとか、余計なことを語りだしたので……。


「ばーちゃんを孕ませたうえポイ捨てして、いつまでもフラフラして謝る素振りも帰る素振りも見せないまるでだめな親父で、たぬをいじめたじーちゃんなんて、だい、だいっ、だいっきらいたぬぅううう!!」


 と、積年の恨みを晴らすべく怒鳴っておいた。

 なぜかショックを受けているようだけど、残念でも無く当然の報いだった。

 人間に味方した祖父には、それはそれは酷い目に合わされたのだ。自慢の毛を刈られたり、死ぬほどの大怪我を負う原因をつくられたり、世界を何度も移動したり――。

 そうして、アリスはこの摩訶不思議まかふしぎせかいで、人間と友達になった。

 最初はクロード。次にイスカ、友達の輪は広がった。獣だからと襲われることもなく、多くの人間と仲良しになった。まだ猫や犬には怯えられるけど、いつかわかってもらえるとアリスは信じる。


「……じーちゃん、たぬは人間が嫌いだったぬ。でも今は、人間じーちゃんの血が流れていることが、少しだけ嬉しいたぬ」


 これは、夢だ。

 世界が異なる以上、アリスが本当に祖父母に会えるはずがない。

 それでも、現実に確かなことがある。アリスは、大人の階段をひとつのぼったのだ。



「爺さん。こいつが僕のロマンってやつだ!」


 クロードの声が聞こえた。

 彼は左手を犠牲にドクター・ビーストを退け、アリスを溶かす光を放つ機械を爆破した。


「なんということだっ。最終工程がまだだというのに……」


 クロードに虚を突かれたのか、ヒトデの怪人は天を仰いで嘆いた。


「ドクター・ビースト、最終工程ってなんですの?」


 少し離れた場所から、刃の重なる音が聞こえる。

 ソフィと剣戟を交わしながら、レベッカが投げかけた問いに、博士はこう答えた。


「洗脳改造だ」

「それはっ、一番初めにやりなさいよ!」

「わしの改造は、被験者の潜在能力を引き出すものじゃ。最初に魂を奪ってしまっては、意味がなかろう?」

「これだからマッドサイエンティストはっ」


 なにやら揉めているようだったが、アリスは興味がなかった。

 アリスの身体を溶かしこんだ泥が発光し、新しい肉体を再構築する。

 いつもの黄金色のもさもさした毛並みが可愛らしい、ぬいぐるみじみた獣の姿に戻り、次に一瞬だけ真っ白な肌と腰まで届く金色の髪が美しい少女へと変わった。


「”獣変化メタモルフォーゼ”」


 アリスは再び丸みを帯びたぬいぐるみの姿に戻り、毛並みが黒く染まると同時にまるい身体が引き締まって、筋肉に覆われた美しい虎へと変化した。


(大事なのはここからたぬ。クロードが部屋に隠してあるエロ本はチェック済みたぬ!)


 クロードは、胸の大きいおねえさんが好きなのだ。

 だから、アリスは望む。大きくなりたいと。元来獣の成長は早いのだ。

 ドクター・ビーストの泥と光は、彼女が選んだ強さとカタチを与えた。

 長い黒髪が風に吹かれてたなびく。虎耳が髪を割って立ち、猫目が輝き、真っ黒なもふもふの尻尾が伸びる。少女ではなく、日焼けした肌の美しい女性の姿となったアリスの胸はとても大きかった。


(これなら、ソフィちゃんとも張りあえるたぬっ)


 瀕死のクロードは、アリスがこんなことを考えていたなんて、つゆとも想像していなかっただろう。

 彼は、爆風で吹き飛ばされながら目を閉じて、祈るように呟いた。


「アリス、すまん。手が足りない」

「大丈夫。クロードを抱きしめる手は、ここにあるたぬ」


 アリスは、獣の前足ではなく、人間の腕でクロードを抱きとめた。

 金色の猫目から、愛する人の顔や胸にぽろぽろと涙が落ちる。

 こんなに傷ついて、ぼろぼろになって、それでも迎えにきてくれたのだ。


「クロード、大好きたぬ。たぬが絶対に守るたぬ!」

「……アリス?」


 わずかに安らいだ声を残して、クロードは意識を失った。

 アリスはクロードを岩陰に運んで寝かせると、戦場に残されていた布鎧や軍服を裂いて、さらしのように自らの胸に巻き付け、また見えぬように腰を覆った。

 衣服を着ないと、はしたないとレアに怒られるし、異性に裸を見せるのはクロードだけにしたかったからだ。


緋色革命軍マラヤ・エカルラート。お前ら絶対に、ゆるさんたぬー!」


 ベナクレー丘の戦場に、アリス・ヤツフサの咆哮ほうこうが轟いた。

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