第32話 悪徳貴族、美姫を屋敷へ持ち帰る

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 復興暦一一〇九年/共和国暦一〇〇三年 晩樹の月(一二月)九日夜。

 異世界から来訪した虎を説き伏せたクロードだったが、彼が贈ろうとした名前「たぬ吉」は、すげなく断られてしまった。

 同行していた少女、イスカ・ライプニッツ・ゲレーゲンハイトは、虎に「アリス・ヤツフサ」という名前を提案したのだが――。


「アリス・ヤツフサ、ですか? イスカちゃん、どうしてそのお名前を?」

「虎さん、アリスでヤツフサっぽいからっ」


 レアの問いかけに、イスカは無邪気に答えてにっこり微笑んだ。


(言われてみれば……)


 クロードは、たぬ吉のふさふさした毛並みを見つめて思案した。

 先程までの黒くてスポーティな体格と異なり、黄金色の体毛に包まれたぬいぐるみじみた身体は、遠目からは八つの房が生えているようにも見える。


(アリスは女性名だけど、男が名乗る例がないわけじゃない。ヤツフサは、南総里見八犬伝の化け狸、玉梓たまずさに通じ、獣性を捨て菩提心を得て神犬へと至った縁起のいい名前だ)


 虎は、そもそも女の子だったのだが、この場でクロードだけが気づいていなかった。

 ともあれ、彼女はもこもこした身体を興味なさそうに丸めると――。


「アリス? 可愛いし、それでいいたぬ」

「た、たぬ吉だって可愛いじゃないか!」

「ふんぬ!」

「げぼはっ」


 なぜか、アリスにとって、たぬ吉という名前だけは許されないらしい。

 ジャンプからのボディアタックを顔面に受けて、クロードは吹っ飛ばされ、――違和感に気がついた。


「みんなっ、伏せろぉ!」


 地下深くにあるはずの、部屋の空気がざわめく。

 紫電が走り、指や関節を鳴らすような音が小刻みに聞こえた。

 壊れた機材やジャンク材が滑るように移動して、複数のルーン文字で円を描くような魔法陣を形作った。

 クロードは、知らない。己が目覚めた時、怪物に弄ばれる死体が同じ形に並んでいたことを。

 アリスもまた、知らない。ファヴニルに発見される前、水の滴りが同じ絵図を描いていたことを。

 異変が起きていた時間は、わずかに数秒。

 円陣の中央には、真っ白な単衣ひとえをまとった、ひとりの少女が横たわっていた。


(……白装束だって!?)


 クロードは、驚きのあまり声も出なかった。

 少女が身につけている衣服は、間違いなく着物だ。ひょっとして、同じ世界の故郷、日本から来たのだろうか。

 ひゅう、と、何か不穏な呼吸の音が聞こえた。赤い雫が、少女の白い肌をつたって床にこぼれ落ちた。

 喉から流れでる血は、長い薄墨色の髪と白装束を、緋の色に染めてゆく。


「重傷じゃないかっ。治癒の魔術を急いでかけないと!」

「お待ちください。領主様っ」


 慌てて駆け寄った主人クロードに、侍女レアは思わず制止の声をあげていた。

 少女の右手には、血濡れの匕首あいくち――、鍔のない短刀が握られていたからだ。


「……彼女は御自身で喉を突かれたようです」

「それがどうした!」

「彼女の顔をご覧ください。自らの物語いっしょうを己が意思で終えた方を、あえて苦界に縛りつけるのですか?」


 クロードは、傷を癒すために少女を抱き起こし、喉に左手を添えて顔をのぞきみた。

 苦痛と共に、彼女が浮かべていた表情は安堵だった。

 為すべきことを為し、背負った荷としがらみから解き放たれたという満足感だ。

 壇ノ浦で入水した新中納言、平知盛の残したとされる言葉を思い出す。


(見るべき程の事をば見つ、か。……知ったことかぁ!)


「そうだ」

「なぜです?」

「僕が、この子を助けたいからだ。ソフィ、心臓マッサージを頼む!」


 クロードが呪をつむぎ、右手で魔術文字を綴ると、まるで時間が巻き戻るかのように、喉を裂いた傷口が逆回しに塞がって消えた。

 しかし、少女の呼吸と心音はすでに止まっている。事態は一刻を争った。


「うんっ」


 遺跡探索で慣れているのだろうか? すぐさま駆けつけたソフィが、少女の胸の真ん中に手を重ねて圧迫を始めた。

 結局見ていられなかったのだろう。レアも即座に蘇生の魔術をつむぎ始めた。

 

「一分間に一〇〇回以上だ。頼む!」

「まかせてっ」

「私も手伝います」


 魔術を併用した胸骨圧迫による心肺蘇生は、想像以上に体力と精神力をすり減らした。

 それでも三人は諦めず、少女の生命を取り戻すべく必死の救助を続けた。

 アリスは、イスカの腕に抱かれながらただ見守っていた。


「人間って、よくわからないたぬ。家族でもないモノをどうして助けようとするたぬ? 悲しんだり、怒ったりするたぬ?」

 

 アリスが戦ってきた相手には、そういう者もいたのだろうか?

 イスカは、父親がやってくれるように、優しく彼女の頭を撫でさすった。


「きっと、わかるよ。アリスちゃん、だから、にんげんはつよくて、あったかいんだよ」


 果たして、どれだけの時間が過ぎたのか?

 実際には、わずか数分のことだったのだろう。少女の心臓は動き出し、呼吸は正常に戻った。

 クロードは汗みずくの額をハンカチで拭いて、つい余計なことを口走ってしまった。


「……人工呼吸、やっとけば良かった」

「領主様?」


 レアのこめかみが、ほんの少しだけひきつって。


「クロードくん?」


 ソフィは問答無用で、クロードの耳たぶをつねりあげた。


「い、痛いっ。ソフィ、今のは冗談。部長ジョークだからやめてっ」


 喉に穴があいていた以上、すぐに人工呼吸をやっても意味がなかった気もするが、クロードはこうして懲らしめられ――。


「もう、パパはそんなじょうだんなんてっ、……よくいうね。いまごろは、きっとおふとんのなかで女の人とプロレスごっこしてるし」

「どしたぬ? イスカちゃん、元気だすたぬ!」


 なぜかイスカが、アリスに励まされるという奇妙な光景ができていた。

 結果、イスカはアリスのぷにぷにした肉球がことのほか気に入ったらしく、ぺったりくっついて離れなくなってしまった。


「アリスちゃん、かぁあいいねっ。だっこしてあげる!」

「ぐぇえっ。た、たすけてたぬ。はぁなぁしてぇえっ」


 かくして無事アリスを仲間に加え、予期せぬ形でひとりの少女を救ったクロード達は転移魔法で遺跡から脱出した。

 全員無事で、目立った怪我もなく、大八車には山盛りのマジックアイテムという、堂々の凱旋がいせんだった。

 その影で、イスカに抱きしめられたアリスがやつれて小さくなっていたが、クロード達はじゃれているものと気に止めなかった。


「ねえ、クロード様。レアちゃん。アリスちゃんが名前を忘れていたってことは、きっとこの子も――」


 ソフィの心配はもっともだった。

 なにせクロード自身、己の名前を含めた、記憶の大部分が曖昧になっているのだから。

 レアも、少女を案じるように、言葉を引き継ぐ。


「記憶に混乱を生じている可能性があります」


 クロードは、背負った少女を振返り見た。

 月光に照らされた少女の髪は、まるで透き通るような白銀の色に映えていた。


「そうだな」


(ギン。だと、往年の名作時代劇に出てくる、くノ一みたいだし)


 夜空に燦然さんぜんと輝く、天の川のようだと見惚れながら、クロードは決めた。


セイ、この子が自分の名前を思い出すまでは、そう呼ぼう」

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