第36話 別れと再会

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 復興暦一一○九年/共和国暦一○○三年 晩樹の月(一二月)一二日。

 預かっていた娘イスカを親元に帰すため、転移魔法を使って、共にマラヤディヴァ国首都クランの港を訪れたクロードは驚愕きょうがくした。

 イスカが父と呼んで抱きついた男、冒険者ニーダル・ゲレーゲンハイトの風貌ふうぼうが、彼がよく知る者の面影を強く残していたからだ。

 短かった黒い髪は長く伸びて、黒い瞳にも相応の年輪が刻まれて、十年近く老けている。

 しかし、大人になった横顔は、紛れもなくクロードが探し求めていた先輩のものだった。


「誰だ、お前って。部長、冗談ですよね? 僕がわからないんですか?」

「おいおい、新手の成り済まし詐欺かよ? ……って、アンタはクローディアス・レーベンヒェルム。ファヴニルの盟約者で、俺の敵か」


 瞬間。クロードの目に映る、無精ひげの浮いた野性的な顔と、紅い外套をまとった体躯がなぜかにじんでぼやけた。


「僕が、部長の、敵?」

「パパ! クロードはいいひとだよ。パパのてきなんかじゃない」

「娘を無事返してくれたことには礼を言う。一緒に発掘した財宝は、そっちで好きに処分してくれて構わない。じゃあな、もう会うこともないだろう」


 ニーダル・ゲレーゲンハイトは、そう告げるや、イスカの手をひいて腕中へと抱き上げた。

 クロードに背を向けて、共和国行きの船に向かって歩き出す。見覚えのある、色白い金髪の女と健康的な肌をした黒髪の女が、乗船口の傍で手を振っている。


「ハハ。なんだよ、これ。なんなんだよこれは!」


 クロードは喘ぐように息を吸った。胸に激痛が走って、立っていられない。


(伝えたいことがいっぱいあった。話したいことがいっぱいあった。聞きたいこと、聞かせてほしいこともいっぱいあった)


 ニーダル・ゲレーゲンハイトは振り向かない。港に敷き詰められた石畳を踏む足音が、無情に響き渡る。


(愚痴りたかった。弱音を聞きたかった。褒めて欲しかった。認めて欲しかった。部長の負った荷物を一緒に持ちたかった。部長の助けになりたかった)


 けれど、今、その機会は失われようとしている。


(見捨てられた? 違う、部長は僕を忘れている。僕がそうであったように)


 港を照らす太陽に、雲がかかった。

 今は雨季だ。磯臭い潮の香りに混じって、雨の匂いがした。


(声をあげろ。追いすがれ。言うんだっ。僕は貴方の後輩だって伝えるんだ。僕は、僕の名前は)


 クロードは親子を追おうと一歩を踏み出そうとして、動けなかった。


「ハハ……。僕は、僕はいったい誰なんだ」


 呼び止めることすら叶わずに、クロードはがっくりと港の石畳に膝をついた。


(どうして部長を責められる? 僕は自分の名前も、部長の名前も、思い出せないのにっ)


 力の抜けた指先に、ぽつんと水の飛沫が跳ねる。雨が降り始めた。

 叩きつけるようなスコールが、クロードの背を打ち据えた。

 南国の雨は、大地に等しく降り注ぐ。愛娘を抱いて歩く、呪われた男にも。

 けれど、ニーダルの胸に抱かれたイスカの額に、雨ではない熱い雫がこぼれ落ちた。


「パパ、泣いてる」

「おかしいな。なんで泣けてくるんだろう。ごめんな、イスカ。俺は、お前がクローディアス・レーベンヒェルムの傍にいたのに、安心したんだ。絶対に安全だって、そう思っちゃったんだ。なんでだろう。きっとイスカに甘えていたんだな」

「ちがう。ちがうよ。パパ。パパがあまえたのは、ちがうんだよ」


 イスカにはわかる。父が自分を憂いなく預けたのは、相手がクロードだったからだ。

 父が、呪詛じゅそおかされた自分自身以上に、かつての友たる演劇部員達を信じていると、イスカは知っていた。


「酷いこと、は、あいつがするわけないか。クローディアスの屋敷は、楽しかったか?」

「うんっ。アリスちゃんって、おともだちができたよ」

「そっか。よかったな。友達は大事にするんだ。パパとの約束だ」

「うん」


 イスカは、青灰色の瞳を閉じた。

 大切な友達。黄金の毛並みが愛らしい、ぬいぐるみに似た虎の顔をまぶたの裏に焼きつけた。


(さよなら、アリスちゃん)


 もう彼女と会うことはないと、イスカは今生の別れを覚悟する。

 自分以外の誰かの為に戦って、己自身を取りこぼしてゆく父。

 彼を支え、命果てるまで寄り添うと、イスカは決めたのだから。


(そして、さよなら、クロード)


 ニーダルとイスカは、イルヴァ、カロリナと合流し、共和国行きの船へと乗った。

 かくして、クロードと、ニーダル・ゲレーゲンハイトの道は交わることなく分かたれた。

 少なくとも、この時は――。



 クロードはニーダルと別れた後、マラヤディヴァ国議会の議員宅を回り、またいくつかの政治集会に参加した。

 港の入口で待っていたレアは、呆然自失の有様だったクロードの右手を握って、傍に控えてくれた。

 だから、演じられた。辺境伯として、領主として、果たさねばならない職責を全うできた。

 それは、生きるために必要なことだから――。


(でも、僕は、生きて、生き延びて、何をすればいいんだろう?)


 クロードにとって、部長は英雄だった。だから、心のどこかですがっていたのかもしれない。

 彼が、地球の日本で演劇部に降りかかった数々の困難を切り抜けたように、快刀乱麻とばかりに事態を解決してくれることを。


「私も、一緒の部屋に泊まります」

「レア、それはよくない」

「ですが……」


 ホテルの廊下で、心配そうに見上げるレアの手を引いて、クロードは隣室のドアの前へ送り届けた。


「大丈夫だよ。おやすみ、レア。また、明日」

「おやすみなさい、領主様。また明日」


 手を放す。――胸が痛んだ。

 あの青い髪と赤い瞳の少女を抱きしめて、心のままに泣き叫んだなら、どんなにか楽になれるだろう。


(部長にすがれなかったから、レアによりかかるのか? 僕はなんて、情けない)


 クロードは、自分の借りた部屋へと入り、テーブルの椅子に腰掛けて突っ伏した。

 鞄から日記を取り出すも、今日のことをよく思い出せなかった。


「イスカちゃんを無事親元に送り届けた、でいいか。……しばらく屋敷には、帰れないな」


 明日は、ニーダルを招いたというオクセンシュルナ議員との会談があり、その後もスケジュールは詰まっている。

 セイのことは、事前に対策を打っていた。彼女が、この世界で生きてくれることを願うばかりだ。


(でも、生きて、生きて、なにがそこにあるんだ?)


 喉が、それ以上に心が渇いていた。水差しを取ろうとして、不意に部屋に別の誰かの気配を感じた。


「落ち込んでるね。クローディアス、それも仕方がない」


 窓が開いている。金の髪が風に揺られる。相変わらずひらひらとした服と、天使のような微笑。しばらく見かけなかった悪魔がベッドの脇に佇んでいた。


「ファヴニル、何しに来た?」

「大切なお友達は、キミのことを忘れちゃった。いいや、見捨てられちゃったのかな?」


 なぜファヴニルが、ニーダルと己の関係を知っているのか、クロードはいぶかったが、考えるのは止めた。

 心を読まれているのか、それとも詐術による見せ札ブラフか、どちらにせよ終わったことだ。部長は、もうマラヤディヴァ国を離れてしまった。


御託ごたくはいらない。お前の煽りに付き合うつもりはない。用がないなら帰れ、僕は寝る」


 不思議なことに、クロードはファヴニルに以前程の脅威や恐怖を感じなかった。

 イスカは、ニーダルがファヴニルとひきわけたと言ったが、ニーダルがクロードの知る部長なら、ただ引き分けるだけで済むはずがないのだ。

 おそらくは、部長自身も手傷を負っただろうが、悪魔も半死半生まで追い込んだはずだ。

 そして、ファヴニルの手駒たるテロリストどもは、クロード自身の手で捕縛した。

 今、後がないのはクロードだけじゃない。ファヴニルだってきっとお互い様だ。


「クローディアス、キミと休戦したい」

「どれくらいの間だ?」

「三年だ」


 足りない、と、クロードは直感した。

 レーベンヒェルム領を復興するには、今のペースでは絶対に間に合わない。

 セイを助け出す際に知った、遺跡に眠る第三位級契約神器レギンを掘り起こすことさえ、危ういだろう。

 それを、踏まえてなお――。


「わかった」


 クロードは頷いた。

 ファヴニルの緋色の瞳が、わずかに揺らぐのが見えた。

 余計な時間を与えれば、ファヴニルは手がつけられなくなる。

 また、血が流れるだろう。多くの涙が零れるだろう。それだけは止めなければならない。


(生きて、生きて、なにがそこにあるか、だって? どれだけの死者をこの目で見送った? 僕は知っている、知っているんだ!)


 クロードは拳を固めた。

 決めたのだ。この悪魔を討ち果たすと。

 しかし、ありったけの敵意をぶつけてなお、ファヴニルは妖艶に微笑んで、こう続けた。


「ねえ、クローディアス。ボクと同盟しないかい? 休戦だけじゃない。仲良くしようじゃないか?」

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