第二章 悪魔と夜

第6話 始まりの朝

 

 ファヴニルと盟約を結んだクロードは、レアが作ってくれた夕食を食べて、早々に領主部屋へと戻った。

 悪魔と契約したことを考えると胃が重すぎて、彩り豊かなサラダも、丁寧に仕上げられた魚のソテーも、温かい畜肉の煮込み料理も、正直味がよくわからなかった。

 だから、レアが、『はじめて残さずに食べていただけました。メイド冥利につきます』と目を輝かせて感激したのを見て、クロードは罪悪感を抱かずにいられなかった。確かに、食後の果物まで食べつくしたのだから、空腹を差し引いても、やはり彼女の料理は美味しかったのだろう。その後の記憶はない。ランプの灯を消す気力すらなく、ベッドで眠りこけてしまったからだ。

 翌朝、クロードは早寝のせいか六時頃には目を覚まし、比較的動きやすそうな服に着替え、訓練場を一周した。


(運動なんて大嫌いだ。叶うなら、こんなものとは無縁の自堕落な生活を送りたかった!)


 しかし、命がかかっている以上、贅沢は言えない。クロードはいつ着の身着のままで逃げ出すハメになってもいいよう、トレーニングに励むことにした。今の彼の足では、とうてい逃げ切れそうになかったからである。


「……ひい、ふう。た、体力なさすぎだろ、僕」

「おはようございます。領主様。水差しをお持ちしました」


 クロードはぜいぜいと息を整えながら、いつの間にか控えていたレアが差し出した水差しを一息にあおった。


「お、おはようレア。今日はいい天気だね」

「はい。洗濯物がよく乾きそうです」


 洗髪剤の残り香だろうか、ほんのりとした女の子の甘い香りを嗅いで、クロードの声は裏返る。


(し、集中集中! 部長じゃあるまいし。さあ、仕事始めだ)


 アルバイトの経験なんて、部長に連れ出された祭りの会場設営や、屋台の手伝いくらいしかななかった。

 正直不安ばかりだったが、この時、クロードのやる気はあかあかと燃えていたのだ。

 しかし、シャワーを浴びてトーストとゆで卵の朝食を終え、彼が仕事について訊ねたところ、レアから返ってきたのは残酷な一言だった。


「領主様のお仕事ですか、ありません」


 そりゃそうだろう。領主がまっとうに働いていたなら、レーべンヒェルム領はご覧のような有様にはなっているまい。


「ぷはっ」


 向かいの席で食後の紅茶を飲んでいたファヴニルが、盛大に飛沫を吹き出して、危うくクロードを直撃するところだった。まったくマナーのなっていない悪魔だ。


「じゃ、じゃあ。役所で聞いてみるよ。どこにあるんだ?」

「お役所ですか。それは……」


 レアが細い眉をひそめ、赤い瞳を伏せて言いよどむと、むせて咳こんでいたファヴニルが引き継いだ。


「ああ、あの連中なら、ボクとクローディアスで皆殺しにしたよ」

「はあ!?」


 発言の意味がわからない。


「だって無駄なんだもの。ここはボクの玩具箱で、クローディアスの領地だよ。それをごちゃごちゃ横から口出ししてさ。生きてるだけで邪魔だから、処分したの」


(事業仕分け・物理!?)


 思い返せばクロードの故郷にも、「無駄だから」と家畜の口蹄疫に対する備えをカットして全滅の危機を招いたり、幹部が「百年に一度の災害に対する対策なんていらないでしょ」とのたまって数々の防災政策を中止させた挙げ句に未曾有みぞうの天災に見舞われたり、ノウハウに通じた有能な官僚をクビにして、票田である労働組合出身の官僚を代わりにすえたら公的業務が立ち行かなくなったり、と数々の愚行を犯した政党があった気がするが、さすがに皆殺しとは完全に想定の斜め上だった。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。じゃあ、税金とかどうなってるんだ?」

「税金は、西部連邦人民共和国の企業と、”楽人”と呼ばれる共和国系マラヤディヴァ人が経営する企業が所属する、共和国企業連から納められています。マラヤディヴァ国財務省、国税庁の監査を通った正当なものです」


 レアが抑揚よくようのない声で説明する。クロードは内心呟いた。この子は凄くわかりやすい。


「本当に?」

「……不文律の慣例として、共和国企業連への監査は形式だけのものとなっています」

「だろうね」


 クロードが元いた世界でもまま見られた特権や配慮というやつだ。


「別にいいじゃない。クローディアス。税金の計算とか面倒くさいし、バカバカしいよ」


 ファヴニルが、純白のクロスが敷かれたテーブルの上で、デザートのグレープフルーツをくるくると独楽のように回して遊びながら鼻で笑う。

 ごもっとも。だがクロードの場合はそうも言っていられない。なんとしてでも領内の殖産興業しょくさんこうぎょうに励み、ファヴニルに対抗できる軍隊を作りあげなければならないのだから。


「放っておいても入ってくるんだから、お金の心配なんていらないいらない。借金なら踏み倒せばいいしさ。そうだ! 気に入らないなら、二人で共和国企業連の工場や農園を焼き討ちしようか。きっと楽しいよっ」

「待て。そんなことはやらない。って、借金? 初耳だぞ、それ」

「はい。しばしお待ちください」


 レアはしずしずと食堂をあとにして、すぐに分厚い書類を手に戻ってきた。


「こちらがレーべンヒェルム領の歳入と歳出になります」


 クロードはレアによって示されたページを次々とめくる。収支はおおよそトントンなものの、領民への税率が諸々合わせて七○%を超えているとか、共和国企業連への税率がかなり優遇されているとか、他にも気になる点は多かったが、確かにマラヤディヴァ本国から相当な金額を借り入れているようだ。外債の発行がないのが、せめてもの慰めだろうか。


「すごいな。レア、これ、わかりやすいよ」

「はい。メイドですから」


 いや、それはメイドの仕事じゃないよ。と、喉元まででかかったツッコミを、クロードはブラックコーヒーと一緒に飲み込んだ。レアの声音が、ほんの少しだけ誇らしげだったからだ。


(放っておいても入ってくるんだから、お金の心配なんていらない、か)

 

 欧州における中世貴族は、戦争でもない限り、相当に暇を持て余していたらしい。

 日本だって変わらない。大名や藩主も基本的にはお飾りであり、領地の運営や年貢の徴収は官吏や代官の役目だった。

 以前、往年の時代劇シリーズを視聴した際に、先輩のひとりが、『紀州藩主時代から率先して木綿の服を着て、新田開発の陣頭指揮をとった徳川吉宗は割と珍しい部類の藩主だった』なんて、団子をかじりながら解説していた気がする。


「それだ!」


 クロードは、席を立って屋敷を探し歩いた。目的のものはすぐ見つかった。頑丈な木製の箱に錐とノコギリでポストのような穴を空けて、墨で“クロードボックス”と書き殴る。ノコギリが日本のモノと違い、押し刃型だったので若干苦労したが、なかなかの出来栄えだったと自画自賛する。


「目安箱、あえてクロードボックスと名付けよう!」

「領主様。この箱はいったい何に使われるのですか?」

「よく聞いてくれた。レア。領民の意見を聞こうと思うんだ。今の領内の不満やトラブル、領主への意見を書いてこの箱に投書してもらう。それらを解決していけば、この領も、もうちょっと活気が出るんじゃないか?」

「領主様……」

「クロードボックス!? アハハハハハッ。クローディアス、キミ、最っ高っ!」


 レアは申し訳なさそうにうつむき、ファヴニルは腹をかかえて笑い始めた。


「領主様。申し上げにくいのですが、領内で文字を書ける人はほとんどいません」

「え? じゃあ、書類とか、どうするんだよ?」

「どうしても、という場合は、代筆屋というものがあります」


(しまった。ここは日本じゃない)


 十八世紀における江戸の識字率は、七○から八○%。同時期のロンドンが三〇%、パリが一○%程度だったという。これは当時の日本が希有な例外というべきだ。そもそも、独裁社会や、封建社会において、知識は共有されるべきものではなく独占されるべきものだから。


(寺子屋をやるか? どうやって? 図書館は? 学校は? 駄目だ。今の領内には、人も物も施設も、ない)


 落ち込むクロードを横目に、ファヴニルが嬉しそうにほくそ笑んでいる。右往左往する姿がいたく気に入ったのか、今朝の悪魔はいつになく上機嫌だった。一方のクロードは、食堂の居心地が悪く、逃げ出したくなった。


「レア、地下牢の子たちは?」

「広間に寝かせています。ご用命通り、お医者様と看護師に看ていただいています」


 それを聞いて、ほっとした。だから、心に隙ができた。


「見舞うよ」

「領主様、いけません」

「邪魔なんてしないさ」

「領主様っ」


 レアの制止を振り切って、クロードは広間に向かった。

 確証が欲しかった。自分は間違っていないと、心を支える何かが、どうしても欲しかったのだ。ドアをあける。この先にあるはずだ、自分が守ろうとするものが。


「「いやあああああああっ!!」」


 絹を引き裂く悲鳴、魂切るばかりの悲鳴が、クロードの胸を貫いた。


「は、ハハハ」


 予想しておくべきだった。強姦魔と同じ顔の男が、直接の被害者を見舞えば、こうなることはわかっていたのに。


「すまない。邪魔をした」


 扉を閉じると、廊下にレアが控えているのが見えた。この娘はいつだって礼儀正しくて、冷静だ。その涼やかな顔が、今のクロードには鼻についた。


「レアの言うとおりだったね。僕にできる仕事なんて、ない」

「領主様、そのようなことは……」


 情けない話だ。まだ何も始めてさえいないのに、クロードの気力は萎えきっていた。


「海岸を歩いてくる」


――

――――

 

 クロードは屋敷を出て丘陵を下り、砂浜を歩いた。

 潮風が心地よく、ささくれだった感情が、波の音に洗われるように落ち着いた。


「男らしくない。もし部長が見ていたら、ぶん殴られてるよ」


 乾燥した秋風は冷たくて、泳いでいる者はいなかった。釣り人もいないのは、領主館に近いからだろうか?

 クロードは、浜に打ち上げられた貝殻や流木を見ながら、しばし佇んだ。


(待てよ、貝殻に流木だって……?)


 クロードは、足元に落ちていた桜色の貝殻を拾い、シャツの胸ポケットに入れる。

 これでは足りない。馬屋へと戻って、放置されていた籠を背負い、大量の貝殻と流木を拾い集めた。

 貝殻は焼いて金槌でくだき、流木は倉庫で見つけたドラム缶を使って自作した炭焼き機で炭にする。

 ボー爺さんに手伝ってもらったものの、炭焼き機を埋め込む穴掘り作業は予想外に難航し、完成した頃には太陽が南の空まで上がっていた。


「たりない。全然足りない。これじゃ自己満足、か」


 貝殻を加工した炭酸カルシウムと、流木を焼成した木炭。どちらも有機土壌改良剤としてはポピュラーなものだ。酸性に偏った土壌を中和し、微生物を増やして活動を助成する。だが、広大な領地の一角で、人一人がばらまいたところでまさに焼け石に水一滴を注ぐようなものだろう。


「領内で大々的に貝殻や木片の買い取りをやろうか。牛馬糞も発酵させて加えれば、改良もはかどるかな」


 クロードは日当たりの良い、屋敷近くの荒地に棒きれで線を引き、石を積んで実験区画にした。

 この世界における単位は、偶然なのか必然なのか、地球におけるメートル法とほぼ差異がないらしい。単位こそm(メルカ)と呼び名が違ったものの、慣れ親しんだ定規や巻き尺のような測量器が存在したことは、わずかな慰めとなった。

 納屋に置いてあった鍬で、貝殻粉と炭をすきこむように耕して、井戸から組み上げた水を撒く。ぺんぺん草さえはえない不毛の地は、それでも雄大で、クロードの目じりには涙が浮かんだ。


(雑草でもいい。生えて欲しい)


 また日が暮れる。


「領主様。おかえりなさいませ。海岸はいかがでしたか?」

「潮風が気持ちよかったよ。お土産だ。気が向いたら使ってくれ」


 炭焼きの時間、最初に拾った一番綺麗な桜色の貝殻で、手慰みに作った髪留めを、レアに押し付ける。


「領主様……。ありがとうございます」


 今日の夕食はと、上気してメニューを熱心に語り始めたレアに、クロードは手を振った。


「ごめん、食欲がない」

「失礼しました」


 そのまま、シャワーを浴びて寝巻きに着替え、厳重に鍵をかけて領主部屋へと引きこもる。空腹のはずだったが、何も喉を通る気がしなかった。

 

(今日は、なにもできなかった)


 まともな官僚機構すらない、というか、統治システム自体が共和国に制圧されているとは想定外だった。だが無いものは嘆いても仕方がない。明日からは、人を雇い、領地運営のための役所を組織しなければならない。


(仲間が欲しい。僕はこの異郷でひとりぼっちだ)


 クロードは、昨夕に投げ捨てたホンモノのクローディアスが残した日記を拾い、今日の日付、紅森の月(一〇月)三日のページを開いて、自嘲気味に”なにもなし”と書こうとしてやめた。故事に曰く、ルイ十六世がつけていた日記は、狩猟についての備忘録だ。バスティーユ牢獄襲撃前日に狩猟へ赴いて、目立った獲物は”なにもなし”と日記に残したからと言って、悪しざまにかの王をこきおろすのはフェアではないだろう。


「今日から新しい生活を始めた。――こんなところか」


 わざわざ自分で死亡フラグを立てることもない。ランプの火を吹き消して、クロードはベッドに倒れこんだ。


(そういえば、この世界、一年は三六五日で、二四時間単位なんだよな)


 とりとめもない考えを巡らせるうちに、慣れない作業をした疲労からか、彼の意識もまたぷっつりと灯火が消えたように闇の中へと落ちていった……。

 しかし、穏やかな眠りは短かった。丑三つ時を過ぎて、空が白澄む暁に、非常ベルがけたたましく鳴り響いたからだ。

 クロードは、布団を蹴り飛ばすようにして飛び起きた。


「革命か!?」

「いいや、暴動未満だよ」

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