第64話(2-22)悪女覚醒

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 時をさかのぼること一五年前、マラヤディヴァ国レーベンヒェルム領に、ひとりの少女が生まれた。名前を、レベッカという。

 彼女は、名家であったリードホルム家の分家出身の官僚と、湖と龍神を祭る地元宗教の巫女が結ばれて、愛の結晶としてこの世に授かった。

 幼い日のレベッカは、無知ゆえに、きっと幸せだったのだろう。

 当時のレーベンヒェルム辺境伯は、西部連邦人民共和国の外圧を跳ね除けるため、軍事力強化に努めており、それに伴う重税は、民衆の生活を圧迫していたが、彼女の家には余力があったからだ。

 優しい父と母、そして親戚であるダヴィッド、アンセル・リードホルム兄弟と、従姉であるソフィに囲まれて、何不自由のない、楽しい日々を過ごしていた。


 復興暦一一〇五年/共和国暦九九九年。

 朝に太陽が昇り、夜に沈むように、ずっと続くと信じていたレベッカの日常は終わった。

 先代辺境伯が死亡すると、末子であったクローディアス・レーベンヒェルムが、邪竜ファヴニルと盟約を結び、西部連邦人民共和国の後ろ盾を得て、親族や騎士、商人などを皆殺しにして辺境伯の座を継いだ。

 

 彼女は、見た。

 主君を、領民を守ろうとした騎士たちが無惨に殺されて、亡骸をまるで果実のように城門から吊される有様を。

 彼女は、聞いた。

 慎ましやかに暮らしていた巫女たちが追われる悲鳴と、外国人傭兵たちがあげる嬌声と罵声を。

 彼女は、浴びた。

 大切な両親のはらわたから流れ出る、あたたかくて真っ赤な血を。 


 正義は報われず、悪は栄えた。


 レベッカは、幼馴染であったダヴィッドやアンセルと共に領都レーフォンの下町にあったソフィの家に身を隠し、やがて救援に来たエングホルム家の兵に救われて、生き延びることができた。

 善良なエングホルム侯爵夫妻は、レベッカの境遇を哀れんで、また生存を確認できたリードホルム家唯一人の縁者として、彼女を引き取った。

 エングホルム侯爵夫妻は、レベッカを養女として育て、惜しみのない愛を注いだ。

 けれど、もはや彼女は、養父母の愛情に意味を見いだせなくなっていた。

 すぐに壊れてしまうカタチのないモノに、いったい何の価値があるだろう?


――

―――


 復興暦一一一〇年/共和国暦一〇〇四年 恵葉の月(八月)三一日未明。

 エングホルム家別荘。令嬢レベッカの寝室には、いまだ光が灯っていた。


「弱きものは呪う。虐げられたものは怒る。人々は天の高みから照らす太陽ではなく、自らの心が生み出す闇に祈りを捧げる。……それは自然なことなのです」


 血のようにあかい紅茶で喉を潤しながら、レベッカは寝室に招いた金髪赤瞳の少年、邪竜ファヴニルに微笑みかけた。


「なるほど、それはもっともだ。ボクはキミを肯定するよ。レベッカ・エングホルム」


 法とは何だろう? 時代と場所と為政者次第でうつりかわる、不完全な約束事に過ぎない。

 罪とは何だろう? 不完全な法に人を裁く資格はなく、良心の呵責かしゃくというのなら、罪の意識がなければ罰は生じ得ない。


 大自然を見るがいい。動けぬ草は草食動物に食われ、鋭い牙や爪を持たない草食動物は肉食動物に食われる。

 それが正しい世界のあり方だ。ごく自然なルールだ。

 もしも限られた土地に山羊と草しかなければ、山羊は草を食い尽くすだろう。

 もしも限られた土地に草しかなければ、いずれ草は別の樹木にとって変わられるだろう。

 善とはすなわち、すべてを破滅に導く幻想に他ならず、悪こそが正しくあるべき真実への目覚めに他ならない。


「道徳、美徳、正義……。そんなものは、ヒトのあり方を歪め、不自然な歯車へと変える狂った価値観に過ぎません」

「そうだね。人間はどこまでも残酷だ。それが本来の性質だと、ボクも身に染みて知っているよ」

 

 ――レベッカの価値観は、時を経るごとにいっそう強固なものとなった。

 この世界には、神和かんなぎの一族、あるいは巫女の一族と呼ばれる、強力な魔術師が生まれやすい家系がある。

 魔術が体系化されてゆくにつれて希少性は薄まり、もはや知る人ぞ知るすたれた存在ではあったが、レーベンヒェルム領で、湖と龍神を祭る宗教の神官、巫女を輩出した一族もその類だった。

 たとえば、カロリナは治癒魔術に長けていたし、ソフィは魔術文字を使った道具やシステムの整備に高い親和性を発揮している。


 レベッカが得意とした魔術分野は、予知……。

 ただしくは、極めて近く、限りなく遠い、平行世界を覗き込む異能だった。

 その世界は素晴らしかった。あらゆる国が、人が争って、末世ごくらくのごとき惨状ちょうわに満ちていた。

 子が親を殺し、親が子を殺す。兄弟が互いを相食み、屍山血河が地を覆い尽くす修羅せいじんの世界。


(これこそが正しい世界。ワタシは間違っていた。世界は、こんなにも素晴らしい可能性があった!)


 レベッカは、自覚した。

 まるで目から鱗が落ちるように、天啓を得たのだ。


「ファヴニル様。

 ワタシは、見ました。主君を、領民を守ろうとした騎士たちが無惨に殺されて、亡骸をまるで果実のように城門から吊される有様を。

 ワタシは、聞きました。慎ましやかに暮らしていた巫女たちが追われる悲鳴と、外国人傭兵たちがあげる嬌声と罵声を。

 ワタシは、浴びました。大切な両親のはらわたから流れ出る、あたたかくて真っ赤な血を。 

 でも、それは、不幸ではない。祝福された幸運だったのです」


 燃えるような緋色の長い髪の下、頬を染めてうっとりと語るレベッカを、ファヴニルもまた優しい瞳で見つめていた。あたかも、雑貨屋で使い勝手の良い道具を見つけた時に見せるような、満ち足りた顔で。


「ワタシは、ようやく気づくことができたんです。同性だから、とか、身分が違うとか関係ない。ワタシはソフィおねえさまを愛しています。こんなにもこんなにも、胸が張り裂けそうなほどに。おねえさまを壊して、苦痛に歪む顔を見たいのです」


―――

――


 復興暦一一一〇年/共和国暦一〇〇四年 大輪の月(七月)一五日。

 マラヤディヴァ国首都クランで、クローディアス・レーベンヒェルムの戦勝を祝う宴が開かれた。

 レベッカにとっては、仇ともいえる男だったが、もはやレベッカにとっては瑣末さまつなことだった。


 ソフィを愛しているからこそ、誰よりも不幸にしたい。


 胸のうちでたける衝動の赴くまま、レベッカはエングホルム侯爵夫妻を説得し、彼を別荘に招いて、求婚しようと画策した。


「ワタシは期待していました。恋に恋して熱狂し、興奮で息も出来なかった。あのクローディアス・レーベンヒェルムがどのように残酷な素晴らしい男性に成長したのか。彼と一緒に愛するソフィおねえさまの両手両足を切りおとし、目耳喉を潰し、厠に投げ落として、豚のように鳴かせたらどんなに心地よいか、想像するだけで法悦ほうえつのあまり意識を失ったくらいです」


 でも、と、レベッカは忌々しげに舌打ちをした。


「彼は、ワタシの期待を裏切った!」


 クローディアス・レーベンヒェルムを騙る影武者。その正体が、どこの馬の骨とも知れない異世界からの来訪者であることを、レベッカはすでにファヴニルから聞き出していた。

 レベッカは、クロードが乗っ取ったことを咎めるつもりは一切ない。許せないのは、その後の彼の選択であり方向性だ。


「農業を振興して、領内から飢えを駆逐する? 識字率を向上させて領民の教養を高める? 交通網を整備して殖産興業を図る? ああ、なんて、なんてなんてつまらない男!」


 エングホルム侯爵夫妻は感心していたが、レベッカからすればとんでもない愚物だった。

 邪竜の力、異世界の知識、辺境伯としての権力、そのすべてを使えば、マラヤディヴァ国を制覇するどころか、大陸中に乱を招くことすら可能だろう。欲望の赴くままに、虐殺し、蹂躙し、略奪の限りを尽くせばいい。

 簒奪者さんだつしゃたるクロードは、その力を、知識を、権力を、よりにもよって、……領民達に安寧と平穏をもたらすために使っていた。


「あのような男がいるから、ワタシは満たされないのです!」


 激昂げっこうするレベッカを眺めながら、ファヴニルは檸檬レモンに皮ごとかぶりつき、酸味を十分に味わってぺろりと飲み込んだ。


「ボクにとっても、クローディアスは困った盟約者パートナーだからね。キミには全面的に協力するよ。さてもういい時間だ。今夜は失礼するよ」

「あら、夜はまだ長いですわよ」


 しなをつくるレベッカに、ファヴニルは天使のように無垢な顔を歪めて、心底うんざりしたように吐き捨てた。


「悪いけど、ニンゲンなんかに興味はないんだよ」

「あら残念ですわ」


 ファヴニルは窓から飛び降りて、無駄にスタイリッシュな着地を決めると、獰猛どうもうな番犬にすら気配を気づかせずに城を出た。

 月が照らす夜道を、足取りも軽く、散歩する。


「本当は、クローディアスなら、抱いても、抱かれても良かったんだけど、誘ったらヒいてたものなあ」


 それでもいい。

 彼はいまも戦っている。寝食を忘れて、領の復興に専念する理由をファヴニルは知っている。

 すべては、ただ己を討つ為。それだけの為にクローディアスは、茨の道を傷つきながらも疾駆する。


「レア。そして、ソフィ、アリス、セイか。ご愁傷しゅうしょう様。クローディアスの心を占めているのはお前たちじゃない。このボクだ。端役は端役らしく、隅にひっこんでてよ。ここから始まるのは、ボクたちのラヴストーリーだ!」

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