第63話(2-21)胡蝶之夢

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(あれ、なんだろう? 目の前がまっくらだ)


 気がつくと、ソフィの世界は暗闇に閉ざされていた。

 夜だろうか? 月の光も、星の輝きも見えない。

 暗闇は、苦手だ。……地下室に閉じ込められた恐ろしい時間を思い出すから。


(なに? いたい、いたいよ、なんなのこれ?)


 苦しくて、苦しくて、ソフィは息が出来なかった。

 得体の知れない蛇のような何かが、血管の中でうごめいて、なにかを噛み千切っている。


(なんで、今日は、……くんと海へ行こうって。あれ? だれ、だれとわたしはいっしょに)


 声もでない。

 こぼれたのは言葉ではなく、つばきだけ。

 激痛の中で、口元にやわらかい布の感触がした。

 誰かが、よだれをぬぐってくれたらしい。


「おねえさま、夢でも見ていたのですか? 幸せそうな顔で微睡まどろむなんて。いまや世界が滅びを迎えようとする、この黄昏たそがれに」


 懐かしい、聞き覚えのある声だった。

 なのに、思い出せない。

 喉元まで出掛かっているのに、痛みがひどくて集中できない。


「もっとも、その前に、この宮殿がちますね。赤い導家士どうけしの革命ごっこも御仕舞いです。さすがは竜殺しグラムの継承者、ツァイトリッヒ・シュターレン。さしものファヴニル様も、今回ばかりは無傷で済まないでしょう」


 なにかが、おかしい。つじつまがあっていない。

 テロリスト団体”赤い導家士”のマラヤディヴァ国の活動は、収束したはずだ。

 ツァイトリッヒ・シュターレンは、共和国の第三勢力の頭領、エーエマリッヒ・シュターレンの嫡子の名前だ。

 彼は、父から竜殺しノートゥングを継承していないし、マラヤディヴァ国に来るはずもない。


(ううん。デモ隊を皆殺しにしたあとのシュターレン領虐殺に、ファヴニルは関与してる。だから、ツアイトリッヒは、あだ討ちのために、そして竜殺しグラムの修復を手伝ったレギンへの恩返しとして、マラヤディヴァ国へやって来た。……なんなの、こんな歴史、わたし、知らないよ)


「お似合いですよ、おねえさま。ひととしての尊厳も、あたりまえの幸せも奪いつくされた、ガラクタみたいなその御姿」


 声の主は、ただソフィを哀れみ、蔑み、馬鹿にしていた。

 せめて顔を確かめたいと思うが、目の光が閉ざされて、手足もまるで自由に動かない。

 全身が痛くて、痛くて、気が狂ってしまいそう。


(伝えなきゃ。名前も思い出せないけど、あの人に伝えなきゃ、おかしいって、なにかたいへんなことが起きてるって)


 甘えなのかもしれないけれど、もうソフィには他の手段が思いつかなかった。


「えり…う、ち、は」

「懐かしい名前ですね。ゆめうつつの区別もつかなくなってしまったのですか。エリックもアンセルもヨアヒムも、貴方が守ろうとした子たちは皆、肉片になるまでつぶされて、怪物どものエサになったじゃないですか?」


 そうだ。覚えている。

 見てはいないけど、エリックが、アンセルが、ヨアヒムが断末魔の悲鳴をあげて殺され、無惨に咀嚼そしゃくされる音を、ソフィは己の耳で確かに聞いた。

 おかしい。こんなのは、夢だ。

 でも、夢。夢とはいったいどちらのことだろう? いったい、いつから夢を見ていたのか?


「ブリギッタを逃したのは手落ちでしたが、彼女がつまらない命と引き換えに、ツアイトリッヒを呼び込んでくれたのは嬉しい誤算でした。ねえ、おねえさま、いまどんなお気持ちですか。貴女は、心の自由も、体の自由も奪われたのに、邪悪な竜の主として断罪されるのです」


 もはや声が語る言葉など、理解できなかった。

 ソフィは、ただ背筋が凍りつくような悪寒に震えていた。

 思い返せば、彼と出会ってからの日々は、まるで夢のようだったから。

 ひょっとしたら、クローディアス・レーベンヒェルムの拷問から逃げようと、都合のいい夢を見ていたのではないか? そんな風に思ってしまったのだ。


「いとしい、愛おしい、おねえさま、貴女は、最後までワタシの玩具モノ……」


 香の匂いがする。全身の痛みがひいてゆき、意識が朦朧もうろうとする。

 これは、とても、よくないものだ。けれど、今のソフィは抗うことすら出来なくて――。

 蛞蝓なめくじのようなぬめりが唇に触れる寸前、ぐいと何かに引っ張られて弾き出された。


「あっ」


 目が見えたわけではない。だけど、認識は出来た。

 ごてごてと飾り付けられた死臭のする部屋で、豪奢ごうしゃなベッドに横たえられた、生きているのが不思議なほどに憔悴しょうすいした長い赤毛の女が、燃えるような緋色の髪の女に接吻キスされていた。

 ソフィは、絨毯じゅうたんの上に撒き散らされた薬と、香炉の傍に置かれた包みに見覚えがあった。

 赤い導家士や、彼らに与する商人が持ち込んで――、あの人が領主の影武者を始めてから、徹底的に調べ上げて処分した麻薬、覚せい剤の類だ。

 まるで、黄金の鳥かごに閉じ込められ、翼と羽毛のすべてを奪われた瀕死の鳥のように、薬漬けにされた赤毛の女は、ただただ緋色の髪の女に弄ばれている。

 ふと、赤毛の女の人差し指がわずかに動いた。


『一緒に来ちゃ駄目だよ』


 まるで魔術道具で録音された誰かの声のように、聞き覚えのない声が、意思としてソフィに伝わってきた。


『これはもう終わったことだから。結末は変わらない。どんなに泣いても怒っても、取り返しはつかないんだ』


 そんなことはない、と、ソフィは少女に伝えたかった。

 彼がいる。どんな苦難も諦めずに乗り越えてきた、強くて優しい人が。

 彼と一緒なら、きっとあなただって助けられる。


『うらやましい。本当にうらやましい。わたしはこの夜に溺れて死ぬ。けれど、アナタはわたしと違うもの。聞こえるでしょ、アナタを呼ぶ声が。見えるでしょう、光射す道が』


 闇の中、ソフィの背後に、洞窟の出口のような明かりがぼんやりと浮かんで、誰かの声が聞こえてきた。


『必ずキミの目を取り戻す。だから、どうか諦めないでくれ!』


 ソフィは、胸がいっぱいになった。

 そうだ。どうして思い出せなかったのか。

 この声、この声こそ、クロードのものだ。


『もしも、もしもかなうなら、どうか宿命シックザールにあらがって』


 名もわからない盲目の少女は、闇の中へと融けて行く。

 ソフィは、光の中へと吸い寄せられてゆく。

 そして、氷の塊が割れるような重い音が鳴り響いて、ソフィは悪夢から目覚めた。


「いま、なんじだろ? って、ち、遅刻だよぉ。今日のお弁当は腕によりをかけるつもりだったのに。スイカは、流水で冷やしてるよね。パンは、お化粧はあわわわわっ」

 

 何か、よくない夢を見た気がした。けれど、彼女は夢の中身を忘れてしまった。


――

―――


 復興暦一一一〇年/共和国暦一〇〇四年 恵葉の月(八月)三〇日午後。

 ソフィは、クロードたちと一緒に久々の休日を、海で遊んで過ごした。

 最初に、皆でやったのはスイカ割りだ。

 目隠しをつけられ木刀をもったクロードは、エリックたちにはやし立てられるままに浜を迷走して、海の中へと入ってしまった。

 そこで、助け舟を出したのがセイだった。


「棟梁殿、私を信じろ」


 左、右、斜め、前――。

 セイに導かれるままに、クロードは浜へと戻って、待ち伏せていた彼女に抱きしめられた。


「お見事、大正解だ、棟梁殿」

「違うから、セイ。これ、そういう遊びじゃないからっ」


 目隠しを外しておたおたするクロードは、エリックたちによって引きずられていった。


「よぉし、ヨアヒム、アンセル、このセクハラ領主を埋めるぞぉ」

「がってんでさあ」

「ふかぁく穴を掘らないとね」


 日差しに照らされて、銀色に輝くセイの髪の下、よく見ると目筋の通った彼女の頬はリンゴのように赤くなっていた。

 照れているのだろう。それでも、まっすぐ好意を伝えられるセイの勇気に、ソフィは憧れる。

 結局、スイカは誰も割れずに、最後に番が回ったアリスが見事に木刀で両断した。匂いで見えていたような気がするけど、そこは言わぬが花だろう。


「うまい!」


 クロードは大口をあけて、スイカにかぶりついた。試験農園、セミラミスの庭園で取れた成果物だった。


「いけません、領主様口を汚されては……」


 ソフィは、レアがすかさずクロードの口元を拭うのを見て、微笑ましかった。

 スイカを食べた後は、チームを替えながらビーチバレーをやったり、泳いだり、各々の方法で遊んだ。

 アリスはたっぷり泳いだ後、「トンネルをほるたぬよー」と喜び勇んで、砂浜にもぐって行った。

 セイは、濡れた砂での城作りに夢中になっているらしい。「四層天守、石垣、星型のというのも捨てがたい」なんて呟きながら、目がきらきらと輝いていた。

 レアは、海は苦手だと告げて、クロードと二人でゴムの樹液を加工して作った簡易ボートに乗って、微笑んでいた。

 エリックとブリギッタは遠泳中。アンセルとヨアヒムは、やけになったようにサーフィンの真似事に取り組んでいた。

 ソフィは、軽く泳いだ後、皆が楽しそうに遊ぶのを見つめていた。


 クロードとレアが小屋の近くまで帰ってくると、すっとレアが彼の傍から離れた。

 彼女の気遣いが、ほんの少し嬉しかった。


「クロード様。サンオイル、背中に塗って欲しいな」

「い、良いの?」

「うん」


 浜にうつぶせになる。

 南国であるマラヤディヴァ国の日差しは強く、他の国で秋と呼ばれる時節になってもまだまだ暑い。

 そんな光に満ちた光景が、ソフィにはまるで夢のように、貴重なものに思えた。


「クロードくんの手って、あたたかいね」

「そうかな?」


 遠慮しながらも、背中に触れる彼の手が心地よい。

 クロードは、ここにいる。そう実感したとき、ソフィは安堵のあまり意識を手放していた。


「ソフィ。寝ちゃったのか……。おやすみ」


―――

――


 眠りに落ちたソフィを日陰まで運んで、タオルをかけて去るクロードを一羽の海鳥が見つめていた。

 否、監視していた。


「悪徳貴族の奴隷として、さぞや凄惨な日々を送っていると思いきや、青春で友情でぬるいラブコメですか? 貴女にはそんな場所は相応しくない」


 使い魔に変えた海鳥を飛ばして、遠く離れた城の一室から水晶玉でソフィの様子をうかがう女の名前を、レベッカ・エングホルムという。エングホルム候爵家の養女であり、元はアンセルと同じリードホルム家の分家出身で、エリック、アンセル、ソフィとは幼馴染の間柄でもあった。


「ワタシたちが、ちゃぁんと救い出してあげます。ねえ、ファヴニル様?」


 燃えるような緋色の髪と、狂気の輝きを宿す漆黒の瞳、艶めかしい薄地の夜着を身につけた少女の問いに、見かけだけは天使のように美しい金髪赤瞳の少年が相槌をうつ。


「そうだね。それにしても、侯爵令嬢ともあろうものが、なぜそこまで彼女に拘るのかな? 巫女の一族なんてひなびた価値観、もう意味はないだろう」

「ありますよ。だから、ファヴニル様は、おねえさまを殺さず、ワタシの招きに応じてくれた。さあ、革命を始めましょう。あるべきものをあるべき姿に還すために!」


 ファヴニルは、新しい駒となったレベッカという少女に、さして関心を抱いていなかった。

 彼の興味のすべては、契約を交わした敵手である、クローディアス・レーベンヒェルムに向けられていた。

 だから、気がつかなかった。どれほどの焔が、レベッカの胸中で渦巻いているのかを。


(この世界は歪んでいる。正しい歴史をワタシだけが知っている。だからすべてを正しいカタチに戻します。ああ、ソフィおねえさま、愛しています。ワタシのたったひとつの玩具オモチャ!)

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