第143話(2-97)悪徳貴族と婚姻騒動(前編)

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 悲鳴がひびき、すえた臭いのする地下牢でひとりの少女が震えていた。

 本来ならば可憐という言葉が似合うのだろう。

 しかし、ふわふわとした鳶色の長い髪は泥で汚れ、ぱっちりとした藍色の瞳は恐怖の涙で濡れて、ふっくらと丸みを帯びた頬も涙の跡で見る影もなくグシャグシャだった。


「とうさま、かあさま……」


 絶え間なく父と母を呼び涙にくれる少女を、ひとりの女性が優しく抱きしめた。

 かつては縦ロールにまとめた栗色の髪はほどけ、健康的な肢体を包むのはボロ同然の布切れだ。しかし、彼女の濃灰色の瞳は希望の光を失ってはいなかった。


「大丈夫ですわ。エステル、きっとたすけが来ますの」


 その日、いかなる道を辿ったのか、通風口から顔を出した一羽の鳩が小さな紙片を彼女に落としていった。

 紙面に記されていたのは、ただ一言。


『クローディアス・レーベンヒェルムは信用できる』


 笑ってしまうほど怪しい話だ。

 他人が見れば、確実に詐欺か、あるいは罠と判断することだろう。

 しかし、令嬢は、アネッテ・ソーンは手紙を信じた。

 なぜなら、差出人の名前は”正義の味方”――かつて邪竜ファヴニルのあぎとから彼女と夫を守った男、ニーダル・ゲレーゲンハイトを示す符号だったからだ。


「あなた、守ってくださいませ……」



 復興暦一一一〇年/共和国暦一〇〇四年 晩樹の月(一二月)七日昼。

 早めの昼食をとったレーベンヒェルム領首脳陣は、楽園使徒アパスルとの和平交渉に向けて会議を再開した。

 議長席のクロードが、墨汁と柿汁を塗りつけた黒板に貝殻と卵殻で作ったチョークで書き記してゆく。


「論点を整理しよう。先の会議で決めたとおり、和平交渉自体は受ける。この際に厄介なのは、先方が期限付きの停戦ではなく婚姻同盟を求めていることだ。ハサネ公安情報部長、詳細を」

「刑務所長です、と言いたいところですが、これは公安情報部の役割ですか。現在、ルクレ領およびソーン領を占拠中の楽園使徒は、ルクレ家最後の生き残りであるエステル・ルクレ嬢一〇歳と、ソーン家最後の生き残りであり先日の首都攻防戦で夫が戦闘中行方不明となったアネッテ・ソーン夫人二二歳を差し出し、婚姻による無期限同盟を結びたいと申し出ています」


 ハサネが立て板に水のごとく条件を論じると、さっそくセイが挙手して噛みついた。


「どこに賛成できる理由がある。右も左もわからない幼子に、夫を亡くしたばかりの人妻だぞ。結婚なんて非常識もはなはだしい!」


 セイの抗議は非の打ちどころがない正論だったが、ハサネは軽く受け流してしまう。


「それもまた先方の、楽園使徒の目論見でしょう。敢えて無茶苦茶な婚姻を結ばせることで辺境伯様の印象を貶め、ルクレ領とソーン領の支配を容易にしようと企んでいるのでしょう。小賢しい輩は放置しておけば宜しい。領主血族の身柄さえ確保すれば、大義名分などいかようにも立ちます」


 これもまた正論だった。レーベンヒェルム領とルクレ領、ソーン領の軍事力は比較にならない。

 エステル嬢、アネッテ嬢さえ保護してしまえば、彼女たちを旗印に掲げて兵を挙げることも容易いだろう。


「ハサネ部長の案は合理的だな。交渉で婚約程度に押さえておけばいいんじゃないか。仮に結婚しても、そこのヘタレが手を出すわけもなし。辺境伯様、自首したいならいつでも逮捕してやるぜ」

「お巡りさん、僕はどうしてこんなことになったんでしょう? 留置所へ行きたいです」

「ま、待ってくれ。俺が悪かった」


 エリックがやじを飛ばしたので、クロードがすかさず返すと、会議室は苦笑いに包まれた。

 実際のところ、クロードにとっては針のむしろの議長席に比べれば、留置所の方がまだしも気が休まりそうだ。


「ともかく私は断固結婚に反対だ。もしも話を聞かない箱入り娘だったらどうする?」

「くっちゃねが趣味だったら大変たぬ」

「料理を焦がしたり、香辛料を入れすぎたりしちゃうかもしれないよ」

「嫉妬深い方だと、刃傷沙汰にんじょうざたになりかねません」


 クロードは、女性陣の反対意見に思わず胃を押さえた。


「凄い。全員が全力で自爆攻撃を仕掛けてる」

「もうリーダーの胃はボロボロっすね」

「アンセルもヨアヒムも、僕を助けようという気はないのか」

「辺境伯様、だから反対してるじゃあないですか。万の軍勢を得たと思ってください」

「おれっちたちは超頼りになる味方ですよ。大船に乗ったつもりでドーンと構えて」


 無敵艦隊とかタイタニック号ばりには頼りになりそうだと、クロードは嘆息した。

 

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