第234話(3-19)悪徳貴族とソフィの祈り

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 復興暦一一一一年/共和国暦一〇〇五年 恵葉の月(六月)二六日。

 穏やかな闇に抱かれた夜が過ぎ、日の昇る朝がやってくる。

 海の底ゆえか。

 テントの中は南国らしくもない寒さで、クロードとソフィは身を寄せ合うようにして眠っていた。

 繋いだ手に温もりを感じる。治療用の香木を焚いて、ソフィの匂いと入り混じった花の香りがクロードを安心させた。

 ずっとこうしていたかった。戦いとは無縁の世界で、彼女と共に人間として当たり前の生活を送る。それはきっとどうしようもなく、幸せなことだろう。

 だけど有り得ない。……クローディアス・レーベンヒェルムに、そんな日だまりは許されない。

 昨日の休息で傷も半ば癒えた。再び戦いを始めなければならない。

 クロードが決意と共に目を見開くと、ソフィがじっと見つめていた。

 彼女の黒い瞳が緩み、涙がにじむ。花弁のような唇が咲いて、言の葉をつむいだ。


「クロードくん。貴方がこの世界に来てから、色んなことがあったよね」


 ソフィと初めて出会ったのは、ファヴニルに案内されたこの世の地獄めいた地下室だった。

 彼女は傷つき、掌に穴を穿たれて、瞳すら奪われていた。

 ソフィはそれでも同胞を守ろうと、悪徳領主と邪竜の前に立ちはだかった。

 クロードは、彼女の姿とその心に打ちのめされた。思い返せば、魂を奪われていたのかもしれない。

 ああ。だからこそあの海岸で、似つかわしくもない勇気が湧いてきたのだろうか?

 クロードは、レーベンヒェルム領を復興してファヴニルを祓うと決めた。


「皆がクロードくんに助けられた。飢えて死ぬひとはいなくなった。理不尽に殺される人も、奴隷のように虐げられる人もいなくなった。牢獄の中みたいな日々が終わって、お日さまの下で生きて笑えるようになったよ」


 ソフィが、繋いだ手を強く強く握りしめた。


「それでも、クロードくんは――今も死ぬつもりなの?」


 クロードは、手を振り放そうとした。

 しかし、動かない。彼の手は、彼の心に逆らった。


「ソフィ。クローディアス・レーベンヒェルムは、死ぬべき咎人とがびとだ」

「でも、彼はもういないよ。あの人の罪が、冥府で許されたのかはわからない。ここにいるのはクロードくんだよ。マルクさんが貴方を英雄だって憧れるのもわかる。だって貴方はずっと先頭に立って、皆の為に走り続けたんだから」


 ソフィと繋いだ手から、血潮の音が伝わってくる。

 クロードの心臓は、今にも爆発しそうだ。

 まるで血が交わるように、言葉が心に入ってくる。

 許されない、とクロードは奥歯を噛んだ。

 彼女の吐息が、命の熱が、固めたはずの覚悟を溶かしてゆく。

 あの悪党とは違っても、それでも同じ咎人なのに。

 滅ぼされるべき邪悪は、決して許されてはならない。

 クロードは、いっそ自暴自棄じぼうじきにすらなっていたのかもしれない。


「やめてくれソフィ。僕は英雄なんかじゃない。だって僕は、僕はあいつに、ファヴニルに勝てるなんて信じちゃいないんだ」


 言ってしまった。

 ずっと秘めていた罪を、明かしてはいけない真実を、よりにもよって彼女の前で口にした。


「ソフィが、皆が力を貸してくれたお陰だ。レーベンヒェルム領は立ち直りつつある。”血の湖ブラッディスライムとの戦いも、奇跡的に上手くいった。だからわかってしまった」


 アルフォンス・ラインマイヤーは、本人が意図せぬ形で教訓を残した。あるいは、ファヴニルによって予行演習のように誘導された。


「軍をより精強にしよう。怪物災害に準じた避難対策も整えよう。緋色革命軍マラヤ・エカルラートを倒し、第三位級契約神器レギンを見つけよう。そして僕は、ファヴニルに挑む」


 万全の準備を整えれば、戦いにはなるだろう。ファヴニルが利用する軍勢やモンスター、それらを分断して各個撃破することも叶うだろう。


「どれだけ優位な条件を揃えても、僕は勝利する自分を想像できない」

「それは、ファヴニルがグリタヘイズの龍神だから?」


 クロードは頷いた。

 彼がグリタヘイズの村で思い至ったように、ソフィもまた気づいていたのだ。


「あいつは、ある意味でセンパイだった。ファヴニルは、かつて神として人々に恵みをもたらして導こうとした。どうして今のような邪竜に成り果てたのかはわからないけれど……」


 何かがあったのだろう。ファヴニルを変貌させる決定的な何かが。

 彼は人間を憎みながら愛し、嘲笑いながら賞賛する。

 玩具や家畜と断じて弄びながらも、人間がもつ可能性と強さを甘く見てはいない。

 そして弱さを知っているからこそ、クロードを誘惑し、ダヴィッドやアルフォンスを籠絡し、脆い弱点に突けこんでくるのだ。


「確かなことは、あいつは一千年かけて強くなった。あいつの努力と執念に、僕はきっと及ばない。相討ちを狙うのさえ困難だ。僕は身勝手な都合と生存欲求で、勝ち目のない戦にレーベンヒェルム領を巻き込んでる。これは、許されない罪だ」


 最初は茫洋としていた彼我の戦力差が、強くなったからこそ明確に理解できてしまう。

 震えるクロードを抱きしめるように、ソフィが身を寄せる。


「だったら、やめる? クロードくんの先輩を頼る? アメリア合衆国や西部連邦人民共和国にもきっと強い人はいるよ?」

「それは出来ない。部長たちだって自由なわけじゃない。何の代償もなしに他国は動かない。マラヤディヴァ国は海路の要衝だ。ファヴニル討伐を名目に、どんな無理を飲まされることか。外国がファヴニルにとって代わりましたじゃ意味がない」


 クロードは、自身に止まれと念じた。

 格好をつけるのだ。平気のへっちゃらだと演技をするのだ。

 しかし、身体の震えは止まらない。決してソフィに伝えてはならないのに。


「僕がやると決めた。きっと僕だけがあいつを終わらせてやれる。だけど、僕はそんな我儘わがままで皆の命を失った!」


 領役所防衛戦で、ベナクレーの丘で、ルクレ領とソーン領の解放で、少なくない血が流された。


「もしも僕が有能だったら、死んだ人たちは無事だったかもしれない。僕じゃなかったら、もっと上手くやれていたかもしれない。僕がもっともっと頑張っていれば、僕が英雄シグルズだったら、皆を守ることができたのに!」


 クロードの心に刻み込まれた、古く深い傷が開いて血を流す。

 だって規模は違っても、実例を知っているのだ。

 部長は、演劇部最大の危機において全部員を守りきった。

 だからきっと龍神/邪竜えいゆうならば、何もかもを失うことがない。


「クロードくん。神話のシグルズさんは、奥さん二人を守れてないよ」

「あ、いや、それは、そうだけど」


 息が触れそうな距離、互いの顔を瞳に映しながら。

 そうソフィに囁かれて、クロードは言葉を失った。


「あとニーダルさんも、ファヴニルを倒してないよね」

「ちゃ、ちゃんと時間を稼いでくれたよ」


 ソフィの指摘は、辛らつに過ぎる。

 部長の助力がなければ、三年の休戦はなかっただろう。

 しかし、もしもニーダルが何事もなくファヴニルを退治していれば、その後の歴史は変わっていただろう。

 だから彼を責めるのか? お前が力及ばなかったから、僕達は救われなかった?

 そんな恥知らずな台詞を吐く輩がいるならば、クロードはきっとハリセンで殴り飛ばすだろう。


(あ、れ? おかしいぞ)


 クロードは、ようやく自己の矛盾に気がついた。

 英雄ならば誰も彼をも救える? そんなこと、いったいどこの誰が保障してくれるのだ?

 最初のきっかけは、ファヴニルに力を与えられた際の万能めいた酩酊感めいていかんだろう。

 あの夜、クロードはまるで自分が天下無比の存在になったかのように誤認した。


(やられた、毒だ。あの邪竜、最初から仕込んでた!)


 毒も何も、ファヴニルにとっては特別なことではなかったのだろう。

 身に余る強大な力を与えて、人間オモチャを狂わせる。

 先代ほんもののクローディアス・レーベンヒェルムも、ダヴィッド・リードホルムも、アルフォンス・ラインマイヤーも、力という毒に狂って自らの人間性を投げ捨てた。

 クロードはファヴニルの力を拒絶して、しかし無意識下に刻んだのだ。

 竜に対抗する為には、同等の力が必要だと。

 自らにはないことを自覚しながら、只人の力を集めながら――。

 それでも、もしももしもと万能の可能性を、英雄というカタチで求めていた。

 

「クロードくんだけじゃ、ファヴニルに勝てない。そんなの当たり前だよ」


 人間は弱いからこそ、その手に掴めるものが小さいからこそ協力する。

 家族を営み、友人となり、寄りそって村や町を作って、国家を形成する。


「アンセルたちも言っていたでしょう。これは、わたしたちの戦いなの。怖いけど、逃げ出したいけど、それでも生きるためにわたしたちは皆で抗うの。だから、クロードくんも力を貸して。クロードくんが一番うまく皆を率いることができるから。きっとクロードくんだけが、龍神様を鎮められるから。わたしがあなたを守るから。絶対に助けてみせるから」


 まるでひとつになろうとするかのように、クロードとソフィは強く強く抱きしめあった。

 口づけを交わす。接吻キスは、互いの涙の味がして、心に甘く苦かった。


「ソフィ、もしもファヴニルかいなかったら……」


 クロードの独白を、ソフィは唇を重ねて止めた。


「――ん。決めたんだ、クロードくん。わたしはレアちゃんの、アリスちゃんの、セイちゃんの願いを踏みにじっても、貴方を幸せにするよ」

「めちゃくちゃを言うなあ」


 クロードは、いまさらになって気がついた。どうやら自分の目は節穴だったらしい。


 ふたりぼっちを望んだレア。

 人間と寄り添うことを願ったアリス。

 静寂な世界を夢見たセイ。


「うん。わたしは一番悪い子だよ。だから、彼女たちを大切にして。そして最後に、私もこうやって抱きしめて」


 ソフィが祈る、幸せにしたいという想いもまた、三人の信念に並びたつものだった。

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