七つの鍵の物語【悪徳貴族】~ぼっちな僕の異世界領地改革~

上野文

第一部

第一章 悪魔と契約

第1話 プロローグ/出会い


「待ってたよ、愛しい愛しいボクのオモチャ……」


 潮風の通る磯辺で、幼い悪魔が微笑んでいた。

 華奢きゃしゃな輪郭はまるで乙女か妖精のようで、羽織られた金銀の糸で織られたシャツは羽衣のように舞い、岩に乗せた裸足に打ち寄せる波の音と飛沫がひどく幻想的で魅惑的だった。

 けれど、と、浜を訪れた少年、クロードは思う。――アレは駄目だ。悪意という名の腐臭が強すぎる。視線を交わすだけで、心が砕けそうになる。

 愛くるしいキューピッドのような顔で、天使に似せた血のように赤い瞳を残酷に光らせて、悪魔は質問という名の汚物を投げつけてきた。


「ボクと契約する決心はついたのかな?」


 問いかけられたクロードは、両の目を右手で押さえた。

 岩と石に囲まれた海水溜まりが、夕暮れの日差しに照らされたクロードの冴えない風貌ふうぼうを映し出す。

 黒目の小さな三白眼は、彼にとってコンプレックスだった。ひょろながいモヤシみたいな肉体も嫌いだった。

 とかく物事をネガティブにとらえようとする悲観主義的な性格も、劣等感の裏返しであることを、他ならないクロード自身が気づいている。

 彼はいつだって引け目を感じてきた。高校で演劇部に入部してからは尚更そうだ。

 もう”ちゃんと思い出せない”けれど、先輩達は誰も彼もがいっぱしの傑物で、クロードを萎縮させた。同じ学年だった少女は更によくない。天真爛漫てんしんらんまんで、先輩達にも可愛がられて、格の違いを思い知らせてくるのだ。


(ああ、でも、あそこは心地よかったんだ)


 クロードは、砕けたパズルを抱きしめるように思い出す。

 二年の部長は演技が大根だった。会計の人は無駄に熱血していて、もう一人の先輩は些細なことで落ち込む人だった。三年生先輩のうち、ひとりは隙あらば半裸に脱ごうとする痴女で、相方を務めるもうひとりの先輩は暴走を止めようと頑張ってた。

 変人の部長に率いられて、自分達七人はバカなことばかりやっていた。仲間たちと過ごす日々は、まるで春の陽だまりにも似て、本当に大好きだったのだ。


(大切な場所だったんだ。それなのに、だっていうのに、ほんの少しでも居心地が悪いなんて思ってしまったから、僕は、こんな地獄で悪魔と取引をする羽目になったのか?)


 悪魔が差し出す小さな手のひらには、真っ赤な宝石がはめられた黄金の指輪がのせられている。


(まるでアンドヴァリの指輪だな) 


 クロードはとある神話を思い出す。アンドヴァラナウト。欲深き小人が創り上げた、黄金を産みだす呪われた指輪だ。悪竜退治を成し遂げた、英雄シグルズさえも無惨な死へと導いた破滅の指輪。

 己にとっても、この指輪が呪われた意味を持つことは重々承知している。

 喉が渇く。水が欲しい。海に飛び込んで飲み干したいほどに、舌の先まで乾ききっている。

 

「ファヴニル、僕は……」


 もつれた舌を動かして最後の言葉を紡ぐ直前、クロードはまるで走馬灯でも見るかのように、今日あった出来事を思い返していた。



 たかなしくんっ 危ないッ!

 くろうどっ こっちへ来いっ!


――

――――


 少年が覚えている、いちばん古い記憶は違和感だ。

 クラクションはなくブレーキを踏んだ気配もなく、タイヤが道路を擦る音すらしなかった。

 部活動を終えた高校からの帰り道で、トラックか、バスか、タンクローリー? そもそも車であったかすら定かでない大きな何かに跳ね飛ばされて、――目が覚めたら、眼と鼻の先に死んだ自分の顔があった。

 やたら時代がかった成金趣味の服と貴金属で着飾った、鏡に映る自分と同じ顔をした誰かの死体が向かい合わせに倒れている。


「ようこそ、来訪者。歓迎するよ。新しいボクのオモチャ」


 自分の死に顔なんて異常事態から慌てて目を逸らすと、ひどく可愛らしい男の子が顔を見下ろしながら、天使のように甘い声でそんなわけのわからないことを宣言した。

 少年はその時まだ夢うつつで、きっと先輩たちがやらかしたドッキリだと思い込んでいた。

 色々とタガの外れたあのひと達なら、死に顔を貼り付けたマネキン人形を悪趣味な冗談で作り上げたとしても、不思議ではなかったから。


「ちょっと、部長。また先輩が変なことやってますよ。どうして止めなかったんですか?」


 少年は惰性じみた日常のままに、傍にいるはずの人物に向かって呼びかけた。


「部外者まで部室に連れ込んじゃって、先生方に見つかったら大変なことになりますよ。早く帰してあげないと」


 そんな風に先輩の悪戯を訴えようとした瞬間――。

 少年は目覚めと共に事態を認識し、めまいのような違和感もぼんやりとした意識も、なにもかもが衝撃で吹き飛んだ。


(まってくれ。部長って誰だ? 先輩って誰だ? 僕はいったい誰なんだ?)


 夢の中で、親しい誰かが彼の名前を呼んでいた。


(くろ、うど、……くろうど、クロード。そうだ、きっと僕の名前だ。落ち着け、思い出せ。僕はいったい何者なんだ!)


 空白になった胸の中が、純然たる恐怖によって塗りつぶされた。

 驚くべきことに、クロードには自分の名前以外の記憶がなかった。つい先程まで一緒に居たはずの、同じ演劇部員の名前が誰ひとり思い出せない。そもそも自分が誰なのかわからない。


「な、なんだよこれ。あ、あ、あ」


 加えて目の前の光景には、あまりにも現実感がなかった。

 クロードが目覚めた場所は、人工的な洞窟か何かに見えた。

 地下鉄から人がいなくなって、何十年、何百年も放置したらこうなるか、という妙にだだっ広くて薄暗い何処か。そんな日の差さない建造物の、円柱が立ち並ぶ広間の一角に彼は横たわっていたのだ。

 耳を塞ごうとも聞こえてくる生ぬるい音。目を逸らそうとしてもままならない惨劇。石造の床に直置きされたカンテラか、石油ランプに似た光に照らされて、ニンゲンが怪物にガツガツと噛み砕かれていた。

 意識さえ戻ってしまえば、麻痺した鼻でも判別がつく。一面に漂っているのは吐き気を催すほどの血臭だった。

 クロードの周囲に転がっていた死体は、男女合わせておよそ一○体ほど。

 ある者は巨大なナメクジに似た怪物に押しつぶされ、ある者は無数のネズミに全身を噛みちぎられて、物言わぬ肉塊となっていた。

 特にひどかったのは、クロードと同じ顔をした死体だ。長い耳と角の生えた灰色肌の豚によって、大きな鉈で腑分けされて、貪り食われている。


「うご、がっ」


 彼は吐いた。

 胃の中がカラになるほど吐き散らした。


(なんだよこれ? なんなんだよこれは!? 豚が鉈を持っている? 豚鬼(オーク)だとでも言うのかよ。こんな悪夢みたいな光景、現実なわけないじゃないか)


 げーげーと音を立ててしまったのは、完全な失策だった。悶えている暇など無かったのだ。眼前の死体漁りに夢中だった怪物たちは、新しい犠牲者へと意識を向けて、一斉に襲いかかってきた。


(かあさん、とうさん)


 クロードは死を覚悟した。こんな理不尽な死があるものかと心は悲鳴をあげるも、身体からは力が抜けて逃げることさえままならなかった。


「まったく、契約を結ぶ前に壊れないで欲しいなあ。ボクはファヴニル。ねえ、キミ、ボクと契約を結ばない? 助けてあげるよ」


 傍らでファヴニルと名乗った可愛らしい子供が黄色い声をあげるが、クロードには彼が何を言いたいのかまるで理解できなかった。

 もしも契約とやらを結べば、この絶体絶命の危機から助かるとでもいうのだろうか。

 空気の読めない冗談はそのヒラヒラした格好だけにして欲しいと、心の中で悪態をつく。


「しょうがない。サービスだよ。久しぶりに楽しめそうなオモチャなんだ。たーいせつにボクが守ってあげる」


 ファヴニルはうっすらと妖艶に微笑み、怪物達の前へと躍り出た。

 白く細い手から赤々とした炎が伸びる。轟々と燃え盛る焔は、死体もろともにナメクジやネズミを焼き尽くした。

 豚鬼は火から逃れようとファヴニルへ果敢に掴みかかったものの、見えない爪のような何かで引きちぎられて四散した。

 クロードは、恐怖のあまり一歩たりとも動くことができなかった。地獄に仏とでも言うものだろうか? あるいは地獄だからこそ悪鬼がのし歩くのか。

 惨殺死体の大半は、モンスターともども火葬されて、中には彼と同じ顔の遺体も混じっていた。

 せめて骨だけでも拾ってあげたいと、彼は震える足で一歩を踏み出した。

 焼け焦げた床に転がる、煤にまみれた鉈やナイフ、剣、鎧の欠片。

 恐怖のあまり、現実感が麻痺している。


(骨を拾おう。せめて遺族に届けてあげないと。ああ、何を馬鹿なことを考えている? 警察に電話する方が先じゃないか。でも、僕の知る警察は、果たしてここにあるのか?)


 ――グシャ。

 混乱は可愛らしい金髪の子供が骨を踏み砕く音で遮られた。

 ファヴニルは、不愉快さを整った眉ににじませながら、貴金属と宝石にまみれた骨の中から小さな輪を拾い、呆然と立ち尽くしたままのクロードに向かって放り投げた。

 心が動かずとも体は動く。条件反射のように受けとめた彼の手のひらには、真っ赤な宝石がはめられた黄金の指輪が輝いていた。


「キレイでしょ? レーべンヒェルム家の家宝なんだ。今日からキミは、クローディアス・レーべンヒェルム辺境伯になるんだ。あ、ちょっと待って。いい! あれいいよ。焼いちゃわなくて良かった」


 ファヴニルが歓声をあげて走り出し、クロードもまた後を追った。

 窮地だからこそ、心臓は脈打つ。もしも次に怪物に襲われれば、確実に死んでしまうだろう。

 生きながらえるため、どれだけ怪しくても不可解な子供を見失うわけにはいかなかった。

 やがてファヴニルは足を止める。ほんのわずか先の円柱の陰、よりかかるように倒れた男を、満面の笑顔で見つめている。


「……て……くれ」


 男は、生きたまま、千を超える蛆に似た幼虫に全身を食われていた。

 胃の中に吐くものはない。クロードの脳と魂は、今度こそ完全に凍結してしまっている。


「へえ、面白い。寄生蜂にやられたみたいだね」


 ファヴニルは、犠牲者の身体を噛み砕きながら這いずり回る血濡れのむしを、何がおかしいのか笑みさえ浮かべて観察していた。


「た、助けられないのか」


 クロードが思わず零した言葉を聞いて、ファヴニルは楽しみに水を差されたかのように、顔色を変えて唇をすぼめた。


「ボクにだってできないことはあるよ」


 蟲は男の全身を覆っている。おそらくは内臓にまで回っている以上、もはや救う手段はないのだろう。


「だいたい助けるなんて、どうしてさ? もう少し眺めてようよ。生きたまま食べられる姿なんて、滅多に見られない最高の見世物じゃないか」


 クロードを凍てつかせていた氷が砕けた。心が動かずとも体は動く。ドクンと、心臓が強く脈打つ音が聞こえる。


「ころしてくれ」

「アハハ。おもしろーい。ニンゲンってこんなになっても死なないんだ。ねえクローディアス、キミも近くで見てみようよ」


 クロードは、ファヴニルの歓声に応えることなく、背後を向いて走り出していた。

 なにが天使か。悪臭で鼻が曲がりそうだ。こいつはまぎれもない悪魔だ。

 彼は落ちていたナイフを引っつかみ、焼け焦げた鞘から抜いた。大丈夫、震えるなと手を強く握り締める。人間は、せめて人間らしく死ぬべきだと、心が強く叫んでいた。

 血で汚れようと、虫に噛まれようと、知ったことではなかった。クロードは虫をかき分け、男の喉へとナイフを振り下ろした。


 あ り が と う


 男が残したのは、断末魔の吐息だけ。

 それでも、彼は今際の言葉を理解できた。


「……っ」


 クロードは今、自分自身を見失っている。

 芯がない。己の倫理観すら正しいと胸を張って言えない。

 それでも、命を奪った重みに打ちのめされ、救ったという事実にわずかな安堵を覚え、ただ目尻から溢れるままに涙を流していた。

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